土曜日, 4月 27キリスト教・例話集・週報アイデア集
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26人の殉教 (3/8)

26人の殉教 (3/8)

今日の「西坂の丘」の北側にある今の天理教の社殿から南一帯の地は、明治初年までは刑場であった。社殿のあたりは千人塚といい、島原の乱徒の首をさらした上で埋めたところから首塚と称した。 島原・天草の乱のあと、一万ほどの乱徒の首は島原半島南端の原城追手ひのえ口の田の中に並べ、さらされた。そのあと、天草四郎の首は長崎でもひと七日、獄門にかけられた。この首塚には四郎たちの首が葬られたのだろう。   長崎奉行寺沢志摩守の弟半三郎は当初、この刑場で殉教者を磔にするつもりであった。しかし長崎在留のポルトガル人たちは、もっとふさわしい地でやって欲しいと懇願し、 町に近くてカルヴリオに似た丘をさし示した。半三郎は、彼らと対立するのを好まなかったから快くその要請を受入れ、刑場に立ち並べてあった二十六本の十字架を早速この丘に移させた。 その頃長崎にいたフロイスは、長崎港を見下ろす断崖に一列に並んだ二十六本の十字架を見て、「彼らは町を祝福しているようである」と書き記した。この年フロイスは、長崎の修道院で六十五歳の生涯を閉じた。      殉教者の一行を追って長崎にやって来たサン・フエリッペ号の船長達が、フイリッピンのマニラに向う船に乗って長崎の港から出帆したのは、二十六人が殉教してから一ケ月以上たっていた。船上から望むと、十字架につけられたままの殉教者たちの遺骸がまだ眺められた。写真は、マカオのセントポ-ル天主堂の展示室に掲げられた殉教図である。 秀吉は処刑後の遺体の処置については、奉行に何も指示していなかった。風雨にさらされていた殉教者たちの遺体は、キリスト教の信者達が「聖なる遺品」として崇めるために、すべて持ち去った。

その後、「西坂の丘」の東南約二百メートルにサン・ジョアン・バウチスタ教会が建ち、その前にはひと並びの町ができて、サン・ジョアンの町と呼ばれた。この教会は現在、春徳寺のあるトードス・オス・サントス(諸聖人)教会と、長崎県庁立山庁舎のある「山のサンタ・マリア教会」とともに、長崎の三大教会と言われていた。しかし、家康の禁教令の時に破壊され、跡地は日蓮宗 ・本蓮寺になって今日に至っている。

処刑された二十六人の内訳は、フランシスコ会の神父三人、修道士三人、日本人信徒一七人、イエズス会の日本人修道士三人であった。文久二年(1862)ローマ教皇ピウス九世は全員を聖人の列に加えた。  二十六聖人殉教の聖地は、元和の大殉教(注参照)の地ともなったがその後、次第に忘れ去られて行った。  (注)第一集「淀川の水」4.六条河原

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