土曜日, 4月 27キリスト教・例話集・週報アイデア集
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10月 (神無月)

神々のいない月 – 10月

神々のいない月 – 10月

10月 (神無月), 知識
エビス 先週は、10月を神無月といって、日本中の神々が出雲で会議をするために集まるので神々が不在の月だと書きましたが、全員がいなくなるわけではありません。それでは人々が困るので留守番の神々もいるのです。 海の神とされる住吉の神、病気や悪霊から守る道祖神、かまどの神とされる荒神(コウジン)などです。しかし、最も大衆的なのがエビスです。「恵美寿」「恵比須」「夷子」などとも書かれます。 エビスの祭りである『恵美須講』は、正月と10月に行なわれます。特に10月は、 ほかの神々がいない月ですから、 10月の方が盛大に人を集めることに なります。エビスは七福神の1人で、右手に釣ざお左の小脇には鯛をかかえています。はじめは、海の神でしたが後に農業の神となり、商業の神となりました。ですから10月はエビスにちなんだ売り出しなどをすることが多いのです。 ではなぜエビスが出雲に行かないのでしょう。理由として、エビスは足が悪く耳が聞こえないので旅行に行きたがらないといわれています。なんだか障害のある神なんて変ですね。 他の人が何を信じていたって、迷惑をかけるようなものじゃなくて、その人自身が幸せそうにしていたら、それでいいじゃないかというのが一般の考えです。でもあなたは、キリストを知った今、やはり自分はキリスト、他の人はエビスでもいいと思いますか。     「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(ルカ 7:47)...
神々のいない月 – 10月

神々のいない月 – 10月

10月 (神無月), 知識
神無月 10月の異名に「神無月」というのがあります。なぜそのように言われるのかいろいろな説がありますが、最も一般的なのが、八百万の神々が会議をするために出雲へ行ってしまうのでいなくなるというものです。その会議とは、全国の神々がそれぞれ適齢期の氏子のリストを持ち寄り、良縁を定めまとめるためだといわれています。 では、聖書が語っている神と日本の神々とどのように違うのでしょうか。本居宣長のことばによると、「凡て迦微(カミ)とは古の御典(ミフミ) 等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊を申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、共余何にまれ尋常ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏き物を迦微とは云となり、抑、迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもあり・・・ 」と書いています。つまり日本の神々は、一般の人々よりもすぐれた力があると感じられる自然や人、神話の神々などで、善い神も悪い神もあるということです。 それに対して聖書の語る神は、万物を創造された唯一の善なる性質しか持っていないお方です。そして、人間がその存在を信じても信じなくても存在は事実であり、すべての人間を支配の中におさめていることを示しています。それが真理だというのです。しかし、日本の神々を認める人は、神々に善と悪、強い神と弱い神があるわけですから、自分の願いにふさわしい神を選んでお願いをしているのです。 信仰とは、何を信じても自分日都合に合っていればよいというものではなく、それが真理なのかということが大切なのではないでしょうか。 ...
神々のいない月 – 10月

神々のいない月 – 10月

10月 (神無月), 歴史
神と神々 日本に住む私たちが、他の人にキリストについての信仰を語る時に困難を覚えるのは、一般の人々が感じている神と、聖書の語る神の違いが、うまく伝わらないということではないでしょうか。それにはこんな歴史があります。 16世紀の中頃に、日本にキリスト教が伝えられましたが、当初、キリスト教では、その神を「大日」とよんでいましたが、大日如来との混同をさけて「デウス」「天主」「天帝」等とよぶようになりました。明治初年に、キリスト教の神がさかんに説かれるようになりましたが、日本のカミと混同しないように、「天」「上帝」「真神」等の訳語が用いられましたが、聖書の翻訳にあたって、「GOD」の訳語がきまらず、委員の票決によって、一票差で「神」が採用され、この後は、「神」と訳すことが一般化しました。 全国の神々が集まるといわれる出雲大社の祭神は、オオクニヌシノミコトです。出雲大社は、天正19年(1591年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関して、軍資金供出のために神領を召し上げられたため、経済的に困り、全国へ巡回布教師を送り出し、現世利益の縁結びという宣伝をしたら、ヒットしたというわけです。 私たちは皆、幸せを求めて生活をしており、現世利益を求める気持は持っています。しかし、キリストに出会ったから後も、自分の願いだけを持ち続けて、キリストを信仰していこうとするならば、他の神々を信じるのと同じになり、結局その願いがかなえられなければ、信仰そのものを失うことになりかねません。聖書の原則は、あなたの願いをかなえるから神に信頼しなさいというのではなく、その逆で、神に信頼するなら、あなたの生活は守神がるというものです。 「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記 28:2)...