木曜日, 5月 9キリスト教・例話集・週報アイデア集
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月: 2012年2月

26人の殉教 (4/8)

26人の殉教 (4/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (4/8) 以下は、村井寛一編修・発行「ふたたび移った日本二十六聖人殉教地」を参考にしました。 文久三年(1863)長崎に渡来したパリ外国宣教会神父ベルナルド・タデオ・プチジャンが、長崎の地図を手に尋ね回った挙句、大体の推測から立山の一部である茶臼山、俗にいう女風頭(めざがしら)を二十六聖人殉教の聖地とした。  その後、様々な検討が加えられて、いわゆる殉教者の丘は女風頭よりもずっと下手で、首塚にもあまり遠くない、そして海に突出した西坂の丘(西坂町)が正しいと考えられるようになった。  昭和十五年、日本殉教者の記念のために、カトリック長崎教区が西坂の丘付近の西坂町坊主岩の敷地を購入し、信者等の奉仕によって地開き工事が行われたが、計画された大記念塔の建立は戦争の激化のため見送られた。  終戦後、真の殉教地跡と特定された西坂の丘が公園化され、昭和三十七年(1962)殉教記念碑、二十六聖人記念館、記念礼拝堂が完成し、二十六聖人列聖百年祭典が催された。 プチジャン神父は日仏通商条約の定めに従い、元冶元年(1864)十二月南山手町に日本二十六聖殉教者大浦天主堂(現在、国宝)を建立した。この天主堂は、柱に籐の木を使った寄せ棟(ゴシック)風建築で、天草の大工小山秀之進の施工により、西坂の聖地に向け建てられた。神父が前述したように茶臼山を聖地と考えていたなら、天主堂の正面は、そこから港をかすめた遥か北のかた二 ・三キロに望まれる西坂の丘から、右に五度ほど振れた方向に向いているはずである。それを確かめようと私は正面に立ってみたが、目測では到底確認できなかった。   1865年3月17日、この天主堂内でプチジャン神父が、二百五十年の禁教と迫害に耐えてひそかに信仰を受け継いできた信徒を発見するという奇跡が生まれた。 この二十六聖人のうち、コスメ竹屋・パウロ茨木・レオン烏丸・ルドビ...
26人の殉教 (3/8)

26人の殉教 (3/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (3/8) 今日の「西坂の丘」の北側にある今の天理教の社殿から南一帯の地は、明治初年までは刑場であった。社殿のあたりは千人塚といい、島原の乱徒の首をさらした上で埋めたところから首塚と称した。 島原・天草の乱のあと、一万ほどの乱徒の首は島原半島南端の原城追手ひのえ口の田の中に並べ、さらされた。そのあと、天草四郎の首は長崎でもひと七日、獄門にかけられた。この首塚には四郎たちの首が葬られたのだろう。   長崎奉行寺沢志摩守の弟半三郎は当初、この刑場で殉教者を磔にするつもりであった。しかし長崎在留のポルトガル人たちは、もっとふさわしい地でやって欲しいと懇願し、 町に近くてカルヴリオに似た丘をさし示した。半三郎は、彼らと対立するのを好まなかったから快くその要請を受入れ、刑場に立ち並べてあった二十六本の十字架を早速この丘に移させた。 その頃長崎にいたフロイスは、長崎港を見下ろす断崖に一列に並んだ二十六本の十字架を見て、「彼らは町を祝福しているようである」と書き記した。この年フロイスは、長崎の修道院で六十五歳の生涯を閉じた。      殉教者の一行を追って長崎にやって来たサン・フエリッペ号の船長達が、フイリッピンのマニラに向う船に乗って長崎の港から出帆したのは、二十六人が殉教してから一ケ月以上たっていた。船上から望むと、十字架につけられたままの殉教者たちの遺骸がまだ眺められた。写真は、マカオのセントポ-ル天主堂の展示室に掲げられた殉教図である。 秀吉は処刑後の遺体の処置については、奉行に何も指示していなかった。風雨にさらされていた殉教者たちの遺体は、キリスト教の信者達が「聖なる遺品」として崇めるために、すべて持ち去った。 その後、「西坂の丘」の東南約二百メートルにサン・ジョアン・バウチスタ教会が建ち、その前にはひと並びの町ができて、サン・ジョアンの町と呼ばれた。この...
26人の殉教 (2/8)

26人の殉教 (2/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (2/8) 天正十四年(1586)五月、インド副管区長クエリョは神父、修道士、同宿、セミナリヨの少年などあわせて三十余人を伴い大阪城に秀吉を表敬し、歓待された。 天正十五年(1587)三月、秀吉は島津討滅のため大阪を出発し九州に向った。その中に右近は前衛隊として、小西行長も海軍の司令官として従軍したので、クルスの旗が陸海にはためいた。 同年七月、首尾よく島津義久を降した秀吉は博多でクエリョに会った直後、バテレン追放令を出し、キリスト教の布教に急ブレーキをかける。右近は秀吉より棄教を迫られたが拒絶し、明石城主の栄禄を抛ち一族諸国に流浪する。 文禄二年(1593)七月、フランシスコ会のペドロ ・バウチスタ神父がスペイン総督の使節として初来日した。イエズス会のザビエルの来日に遅れること、44年後のことであった。佐賀名護屋城で秀吉に謁見し、日本での宣教を許された。京 ・大坂に病院・天主堂・修道院を建設して、ハンセン氏病患者などを収容した。 慶長元年(1596)十月、土佐浦戸にスペイン船サン・フエリッペ号が漂着し、乗組員が世界地図を示し、キリスト教の伝道によって領土が拡張したことを誇った。秀吉は彼らの領土的野心に対抗して禁教を厳重にし、京都で活動するバウチスタ神父以下信者二十四人を捕らえ、長崎で処刑するよう命じ、その前に彼等の両耳と鼻を切り落とすように命じた。しかし、キリシタンに理解のある奉行の石田三成の計らいで、堀川今出川南の戻橋のあたりで左の耳たぶを少し切り落とすだけで済んだ。そして、京・大阪・堺を引回された。   慶長元年十一月二十二日(1597年1月10日)大坂から長崎に向け出発した。一行は、下関まで陸路を歩き、船で関門海峡を渡り博多から長崎奉行を兼ねていた寺沢志摩守の領地 ・唐津に出た。それから武雄を経て、大村湾にのぞむ彼杵(そのぎ)に出て、船で深夜、...
26人の殉教 (1/8)

26人の殉教 (1/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (1/8) ●   1597年2月5日、26名のキリシタンが十字架につけられました。日本最初の殉教者たちでした。 ●   1587年、それまでキリシタンに好意を寄せていた豊臣秀吉は、突如として『伴天連追放令』を出しました。自らを太陽の申し子とする秀吉にとって、絶対神デウスを信じるキリスタンを受け入れることはできません。 ●   秀吉は禁令を出しながらも、南蛮貿易の利益をも考えていましたから、当初は、それほど強いものではありませんでした。しかし、1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリーペ号を没収するという事件から、スペイン人宣教師は、日本を奪う手先と思うようになり、スペイン人宣教師と日本人の使用人を捕らえ処刑することになったのです。 ●   彼らは京阪で捕らえられ、長崎に送られました。途中、自ら名乗り出した2人を加えて総勢26名、わずか12、3才の少年3名もまじっていました。長崎の町や海から見通しのきく丘で十字架につけられ、4000人をこす見物人たちの見る前で、殉教していきました。 ●  「私が切に願います事は、太閤さまをはじめ、日本の皆の衆がキリシタおなりなさって、救いをお受けになることでございます。」これが十字架上から発せられたパウロ・三木(33才)の最後の言葉でした。 ●   私たちは、キリストを信じていても、秀吉の頃のような迫害に会うことはないかもしれません。しかし、26人の殉教者たちに思いをはせて、キリストが語られた「あなたはわたしを愛しますか。(ヨハネ21:17)」という言葉を自分に問いかけてみましょう。 二十六聖人殉教図 1862年6月、教皇ビウス9世により荘厳な26殉教者列聖式典が挙げられた。これを機として多くの殉教記が諸国で出版され、日本再布教の熱意も燃え上がった。殉教図の多くは図案化されたりしているが、これは写実的に描...