日曜日, 4月 28キリスト教・例話集・週報アイデア集
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26人の殉教 (2/8)

26人の殉教 (2/8)

天正十四年(1586)五月、インド副管区長クエリョは神父、修道士、同宿、セミナリヨの少年などあわせて三十余人を伴い大阪城に秀吉を表敬し、歓待された。 天正十五年(1587)三月、秀吉は島津討滅のため大阪を出発し九州に向った。その中に右近は前衛隊として、小西行長も海軍の司令官として従軍したので、クルスの旗が陸海にはためいた。

同年七月、首尾よく島津義久を降した秀吉は博多でクエリョに会った直後、バテレン追放令を出し、キリスト教の布教に急ブレーキをかける。右近は秀吉より棄教を迫られたが拒絶し、明石城主の栄禄を抛ち一族諸国に流浪する。

文禄二年(1593)七月、フランシスコ会のペドロ ・バウチスタ神父がスペイン総督の使節として初来日した。イエズス会のザビエルの来日に遅れること、44年後のことであった。佐賀名護屋城で秀吉に謁見し、日本での宣教を許された。京 ・大坂に病院・天主堂・修道院を建設して、ハンセン氏病患者などを収容した。

慶長元年(1596)十月、土佐浦戸にスペイン船サン・フエリッペ号が漂着し、乗組員が世界地図を示し、キリスト教の伝道によって領土が拡張したことを誇った。秀吉は彼らの領土的野心に対抗して禁教を厳重にし、京都で活動するバウチスタ神父以下信者二十四人を捕らえ、長崎で処刑するよう命じ、その前に彼等の両耳と鼻を切り落とすように命じた。しかし、キリシタンに理解のある奉行の石田三成の計らいで、堀川今出川南の戻橋のあたりで左の耳たぶを少し切り落とすだけで済んだ。そして、京・大阪・堺を引回された。   慶長元年十一月二十二日(1597年1月10日)大坂から長崎に向け出発した。一行は、下関まで陸路を歩き、船で関門海峡を渡り博多から長崎奉行を兼ねていた寺沢志摩守の領地 ・唐津に出た。それから武雄を経て、大村湾にのぞむ彼杵(そのぎ)に出て、船で深夜、大村湾南端の時津(とぎつ)に着いた。

慶長元年十二月十九日(2月5日)朝、船上で夜を明かした一行は、時津街道を下り浦上村まで来てサン・ラザロのライ病院で一休みした。その日の午後、長崎の町と港が眺望できる岬の突端に着き、同行の世話役ニ人を加えた二十六人が磔刑に処せられた。

レオン・パジエス著、木村太郎訳「日本廿六聖人殉教記」に次のように記されている:  ■殉教の為に充てられたのは普通の刑場であった。然るにポルトガル人は罪囚のとは違った所に於て刑を執行せられたしと半三郎に要求した。海に沿へる路の向側に、頂上は平かで、全市からよく見える一の丘が突立って居て、之に登る坂道はうねうねとして宛然カルヴリオ(注参照)の観を呈して居る。半三郎は其処に二十六本の十字架を用意させ、早速刑の執行を命じた。  (注)宛然(えんぜん):あたかも   カルヴリオ:キリスト処刑の地名 

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