土曜日, 4月 27キリスト教・例話集・週報アイデア集
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歴史

26人の殉教 (8/8)

26人の殉教 (8/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (8/8) (18)聖レオン烏丸 尾張、伝道士 パウロ茨木の弟。フランシスコ会士のもとで伝道士。 数年間僧侶の職にあったが、イエズス会の神父の教えを聞きキリシタンとなった。 フランシスコ会が来日したとき、かれらを助け京都、大阪の修道院建設に尽力した。 聖アンナ病院の院長となつたが、自ら患者のただれた体を拭き清め、衣類を川で洗濯していた。 京都市中の人達に尽力し、「神の聖役者」と呼ばれる。 殉教時の年齢48歳 (19)聖ボナベントゥラ 京都 出生後受洗。両親の死により子供のときに寺に預けられ、20年以上も仏僧として過ごす。 ある日、自分が幼少のころ洗礼を受けていたこと知り、フランシスコ会を訪ね、修道士見習いとして教理の勉強に励むようになる。 布教に尽力。  殉教時の年齢不詳、日本名不詳 (20)聖トマス小崎 伊勢 ミカエル小崎の息子。11歳のとき、京都の修道院建立のため働く大工と親しくなり、キリストの教を受けるようになる。 マルチノの神父を手伝う信仰深い少年で、司祭になる希望を持つ。 母親にあてた手紙は感動的。 殉教時の年齢14歳 (21)聖ヨアキム榊原 大阪 武士の出で最初は医学を学んだ。ある日、宣教師の説教にひかれ受洗。 大阪の修道院建設を助け、その修道院の料理番となり、そこで捕えられた。  殉教時の年齢40歳 (22)聖フランシスコ医師 京都、医師 豊後の大名、大友宗麟の侍医を務める。 秀吉の征韓の役に医師として従軍したとき、あるキリシタン侍からキリストの教えを学び、フランシスコ会の修道院を訪れた。 京都で洗礼を受け、聖ヨゼフ病院で活躍。  最初には処刑者の名簿に載っていなかったが、迫害に抗議し、その結果として処刑者の名簿に載ることとなり、殉教した。 殉教時の年齢46歳 (23)聖トマス談義者 伊勢、薬種商 キリシタンの教えを聞き改宗。その後、...
26人の殉教 (7/8)

26人の殉教 (7/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (7/8) (12)聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン  スペイン、アギラ、司祭 18歳のときフランシスコ会に入会。メキシコを経てフィリピンへ赴任した。 1596年半ば、ブランコ神父とともに来日。わずか数か月で日本語を自由に話せるほどになった。 ヤリで体を突かれる時、大声で「主よ、わが魂を御手に委ねます」と叫んだ。 ヤリの柄が抜けて穂先が残ったため、穂先を手で引き抜かなければならなかった。  殉教時の年齢30歳 (13)聖フィリッポ・デ・ヘスス メキシコ、修道士 スペイン人を父母として、メキシコで生まれた。 青年時代、少し放縦な生活を送った彼は、両親により商業のみちへ進むようフィリピンへ送られた。 フランシスコ会で司祭になるために勉強を始め、司祭叙階のため、サン・フェリペ号でメキシコへ向かう途中、嵐に会い日本へ漂着。京都のフランシスコ会修道院にいたとき逮捕。 喜びの涙を流し、賛歌を歌って息を引き取る。  殉教時の年齢24歳 (14)聖ゴンザロ・ガルシア インド、修道士 ポルトガル人を父、インド人を母としてインドに生まれる。 16歳のとき来日し、イエズス会司祭のもとで伝道士として働く。その後、マニラに渡りフランシスコ会の修道士となる。 日本語に熟達していたため、通訳として1593年再来日し、フランシスコ会の布教活動を助けた。 ヤリで突かれる前、刑吏に悔悛と改宗をすすめたという。 殉教時の年齢40歳 (15)聖フランシスコ・ブランコ スペイン、ガルシア、司祭 神学校在学中にメキシコへ渡り、フィリピンへ行く前に司祭に叙階。  フィリピンでマルチノ神父に師事し、神父とともに来日。 熱心に日本語を学び、数か月で日本語で教えを説き、告解を聞けるほどになった。 十字架にはりつけられた時の顔の微笑が死後も消えなかったという。  殉教時の年齢28歳 (16)聖フランシス...
26人の殉教 (6/8)

26人の殉教 (6/8)

人物, 歴史, 知識
26人の殉教 (6/8) ( 6)聖パウロ三木 摂津、イルマン(修道者) 武家の子として生まれる。5歳のとき、両親と共に洗礼を受けた。 10歳ごろ安土城下のセミナリオで勉強を始め、22歳のときイエズス会に入会した。 仏教の教議に詳しかったので、仏教とキリスト教の教えを対比して説いた。 大阪のイエズス会修道院で捕えられる。 「わたしは何の罪も犯したわけではござらぬ。キリシタンの教えを広めただけで処刑されまする・・・」と群衆に言い残して処刑される。 殉教時の年齢33歳 ( 7)聖パウロ茨木 尾張、桶屋 レオン烏丸の兄。もともとは武士の出であるが、当時は貧しい桶屋を営んでいた。 殉教の2年前、棄教しようとしたが、ゴンザロ・ガルシア修道士の指導によって克服した。 弟レオン烏丸と共に貧者、病人の世話をし、布教に力を尽くす。 ペトロ・バプチスタ司祭の忠実な伴侶であった。長崎への殉教の道でも、妻、母や他のキリシタン達に手紙を寄せ、信仰を固く守るように励ました。 死を前に「神よ、あなたに命をささげます」と祈る。 殉教時の年齢54歳 ( 8)聖ヨハネ五島 五島、イルマン(修道者) 五島に、熱心なキリシタンを両親として生まれる。 幼少のころ、長崎のイエズス会士に引き取られ教育された。 パウロ三木とともに、大阪で捕えられたが、逃れようとすれば逃れられた。しかし進んで殉教者の列に加わることを望んだ。殉教の数時間前に、イエズス会への入会が認められ、十字架にかけられた。 「父上も神の教えのまことを信じ、怠りなく神にお仕えくださるよう・・・」と 言って自分のロザリオを父に渡す。 殉教時の年齢19歳 ( 9)聖ルドビコ茨木 尾張 レオ烏丸とパウロ茨木は叔父にあたる。 殉教の1年前に受洗。いつも明るく朗らかであった。 京都の聖フランシスコ会修道院で侍者として仕える。 司祭が逮捕された時、彼は除外され...
26人の殉教 (5/8)

26人の殉教 (5/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (5/8) 秀吉の最初の朝鮮出兵は、文禄元年(1592)であるから、三人の朝鮮人がキリシタンとして捕らわれるまで四年が経過している。  朝鮮半島へのキリスト教の伝来は、まず、八世紀に唐から景教(注参照)がやってきたことが考えられる。更に時代が下って文禄の役の時、セスペデス神父が日本軍に従軍して半島に渡って宣教した。しかし、これらは民衆に何ら影響を与えるものではなかった。  従って彼らは来日後、尾張で指導を受けてキリシタンになったものと考えざるを得ない。五人が京に上ったのは当時、布教の立ち上がりで人手を必要としたフランシスコ会の求めに応じたのであろう。  (注)景教:唐代、中国に伝わったネストリウス派のキリスト教。王室の保護で盛んになったが、唐末にはほとんど滅亡。のち、蒙古民族の興隆とともに再び起こったが、元の滅亡とともに衰滅した。   日本二十六聖人  (http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/26seijin/index.html) 二十六聖人像(船越保武作) 26人は腰に布を巻いただけの姿で殉教しましたが、意図的に着衣の姿となっています。 ()の番号は「日本26聖人記念碑」の像に向かって右から左への順序です。 ( 1)聖フランシスコ吉 京都、大工 京都のフランシスコ会修道院の近くにすむ。迫害の9か月前に受洗したばかり。 逮捕されてはいないが、殉教者と行を共にしたいと願い、長崎への途中で捕えられ、殉教者に加えられる。 殉教時の年齢不詳 ( 2)聖コスメ竹屋 尾張、刀研師 レオ烏丸とともに京都の修道院の建設に尽力した。 洗礼後、伝道士として大阪のマルティン神父を助ける。 愛をもって病人の世話をし、神父の支えとなった。 マルティン神父と共に大阪の修道院にいたときに捕えられる。 殉教時の年齢38歳? ( 3)聖ペトロ...
26人の殉教 (4/8)

26人の殉教 (4/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (4/8) 以下は、村井寛一編修・発行「ふたたび移った日本二十六聖人殉教地」を参考にしました。 文久三年(1863)長崎に渡来したパリ外国宣教会神父ベルナルド・タデオ・プチジャンが、長崎の地図を手に尋ね回った挙句、大体の推測から立山の一部である茶臼山、俗にいう女風頭(めざがしら)を二十六聖人殉教の聖地とした。  その後、様々な検討が加えられて、いわゆる殉教者の丘は女風頭よりもずっと下手で、首塚にもあまり遠くない、そして海に突出した西坂の丘(西坂町)が正しいと考えられるようになった。  昭和十五年、日本殉教者の記念のために、カトリック長崎教区が西坂の丘付近の西坂町坊主岩の敷地を購入し、信者等の奉仕によって地開き工事が行われたが、計画された大記念塔の建立は戦争の激化のため見送られた。  終戦後、真の殉教地跡と特定された西坂の丘が公園化され、昭和三十七年(1962)殉教記念碑、二十六聖人記念館、記念礼拝堂が完成し、二十六聖人列聖百年祭典が催された。 プチジャン神父は日仏通商条約の定めに従い、元冶元年(1864)十二月南山手町に日本二十六聖殉教者大浦天主堂(現在、国宝)を建立した。この天主堂は、柱に籐の木を使った寄せ棟(ゴシック)風建築で、天草の大工小山秀之進の施工により、西坂の聖地に向け建てられた。神父が前述したように茶臼山を聖地と考えていたなら、天主堂の正面は、そこから港をかすめた遥か北のかた二 ・三キロに望まれる西坂の丘から、右に五度ほど振れた方向に向いているはずである。それを確かめようと私は正面に立ってみたが、目測では到底確認できなかった。   1865年3月17日、この天主堂内でプチジャン神父が、二百五十年の禁教と迫害に耐えてひそかに信仰を受け継いできた信徒を発見するという奇跡が生まれた。 この二十六聖人のうち、コスメ竹屋・パウロ茨木・レオン烏丸・ルドビ...
26人の殉教 (3/8)

26人の殉教 (3/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (3/8) 今日の「西坂の丘」の北側にある今の天理教の社殿から南一帯の地は、明治初年までは刑場であった。社殿のあたりは千人塚といい、島原の乱徒の首をさらした上で埋めたところから首塚と称した。 島原・天草の乱のあと、一万ほどの乱徒の首は島原半島南端の原城追手ひのえ口の田の中に並べ、さらされた。そのあと、天草四郎の首は長崎でもひと七日、獄門にかけられた。この首塚には四郎たちの首が葬られたのだろう。   長崎奉行寺沢志摩守の弟半三郎は当初、この刑場で殉教者を磔にするつもりであった。しかし長崎在留のポルトガル人たちは、もっとふさわしい地でやって欲しいと懇願し、 町に近くてカルヴリオに似た丘をさし示した。半三郎は、彼らと対立するのを好まなかったから快くその要請を受入れ、刑場に立ち並べてあった二十六本の十字架を早速この丘に移させた。 その頃長崎にいたフロイスは、長崎港を見下ろす断崖に一列に並んだ二十六本の十字架を見て、「彼らは町を祝福しているようである」と書き記した。この年フロイスは、長崎の修道院で六十五歳の生涯を閉じた。      殉教者の一行を追って長崎にやって来たサン・フエリッペ号の船長達が、フイリッピンのマニラに向う船に乗って長崎の港から出帆したのは、二十六人が殉教してから一ケ月以上たっていた。船上から望むと、十字架につけられたままの殉教者たちの遺骸がまだ眺められた。写真は、マカオのセントポ-ル天主堂の展示室に掲げられた殉教図である。 秀吉は処刑後の遺体の処置については、奉行に何も指示していなかった。風雨にさらされていた殉教者たちの遺体は、キリスト教の信者達が「聖なる遺品」として崇めるために、すべて持ち去った。 その後、「西坂の丘」の東南約二百メートルにサン・ジョアン・バウチスタ教会が建ち、その前にはひと並びの町ができて、サン・ジョアンの町と呼ばれた。この...
26人の殉教 (2/8)

26人の殉教 (2/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (2/8) 天正十四年(1586)五月、インド副管区長クエリョは神父、修道士、同宿、セミナリヨの少年などあわせて三十余人を伴い大阪城に秀吉を表敬し、歓待された。 天正十五年(1587)三月、秀吉は島津討滅のため大阪を出発し九州に向った。その中に右近は前衛隊として、小西行長も海軍の司令官として従軍したので、クルスの旗が陸海にはためいた。 同年七月、首尾よく島津義久を降した秀吉は博多でクエリョに会った直後、バテレン追放令を出し、キリスト教の布教に急ブレーキをかける。右近は秀吉より棄教を迫られたが拒絶し、明石城主の栄禄を抛ち一族諸国に流浪する。 文禄二年(1593)七月、フランシスコ会のペドロ ・バウチスタ神父がスペイン総督の使節として初来日した。イエズス会のザビエルの来日に遅れること、44年後のことであった。佐賀名護屋城で秀吉に謁見し、日本での宣教を許された。京 ・大坂に病院・天主堂・修道院を建設して、ハンセン氏病患者などを収容した。 慶長元年(1596)十月、土佐浦戸にスペイン船サン・フエリッペ号が漂着し、乗組員が世界地図を示し、キリスト教の伝道によって領土が拡張したことを誇った。秀吉は彼らの領土的野心に対抗して禁教を厳重にし、京都で活動するバウチスタ神父以下信者二十四人を捕らえ、長崎で処刑するよう命じ、その前に彼等の両耳と鼻を切り落とすように命じた。しかし、キリシタンに理解のある奉行の石田三成の計らいで、堀川今出川南の戻橋のあたりで左の耳たぶを少し切り落とすだけで済んだ。そして、京・大阪・堺を引回された。   慶長元年十一月二十二日(1597年1月10日)大坂から長崎に向け出発した。一行は、下関まで陸路を歩き、船で関門海峡を渡り博多から長崎奉行を兼ねていた寺沢志摩守の領地 ・唐津に出た。それから武雄を経て、大村湾にのぞむ彼杵(そのぎ)に出て、船で深夜、...
26人の殉教 (1/8)

26人の殉教 (1/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (1/8) ●   1597年2月5日、26名のキリシタンが十字架につけられました。日本最初の殉教者たちでした。 ●   1587年、それまでキリシタンに好意を寄せていた豊臣秀吉は、突如として『伴天連追放令』を出しました。自らを太陽の申し子とする秀吉にとって、絶対神デウスを信じるキリスタンを受け入れることはできません。 ●   秀吉は禁令を出しながらも、南蛮貿易の利益をも考えていましたから、当初は、それほど強いものではありませんでした。しかし、1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリーペ号を没収するという事件から、スペイン人宣教師は、日本を奪う手先と思うようになり、スペイン人宣教師と日本人の使用人を捕らえ処刑することになったのです。 ●   彼らは京阪で捕らえられ、長崎に送られました。途中、自ら名乗り出した2人を加えて総勢26名、わずか12、3才の少年3名もまじっていました。長崎の町や海から見通しのきく丘で十字架につけられ、4000人をこす見物人たちの見る前で、殉教していきました。 ●  「私が切に願います事は、太閤さまをはじめ、日本の皆の衆がキリシタおなりなさって、救いをお受けになることでございます。」これが十字架上から発せられたパウロ・三木(33才)の最後の言葉でした。 ●   私たちは、キリストを信じていても、秀吉の頃のような迫害に会うことはないかもしれません。しかし、26人の殉教者たちに思いをはせて、キリストが語られた「あなたはわたしを愛しますか。(ヨハネ21:17)」という言葉を自分に問いかけてみましょう。 二十六聖人殉教図 1862年6月、教皇ビウス9世により荘厳な26殉教者列聖式典が挙げられた。これを機として多くの殉教記が諸国で出版され、日本再布教の熱意も燃え上がった。殉教図の多くは図案化されたりしているが、これは写実的に描...
サンタクロースのお話

サンタクロースのお話

12月 (師走), 歴史
☆ 3世紀の末ごろ、小アジアのパタラという港町で、信仰深いお金持ちの家に、ニコラスという子どもが生まれました。ニコラスが少年だった時、両親は相ついでなくなりました。その後、ニコラスは、神学校に入学し、ミラという町で司教になりました。ニコラスは、博学であったばかりか、非常に有徳な人物でした。親ゆずりの莫大な財産を貧しい人々に恵んであげたり、病人の薬代を払ってあげたり、子どもたちには玩具や本を与えたり、惜しみなく人々に与えました。町の人々は彼を心から尊敬し、サンクッス・ニコラウス、つまり聖ニコラスと呼びました。 ☆ ニコラスは、345年12月6日、60歳で亡くなりました。その後、オランダ、ベルギー、ドイツなどで12月6日を『ニコラスの日』と呼び、子どもに贈り物をする習慣ができました。この習慣が、17世紀  オランダの移民とともにニューアムステルダム(今のニューヨーク)に伝わり、クリスマスと一緒に祝うようになりました。オランダなまりで、シント・クラエスと呼んだのが、サンタクロースになったのです。 ☆ 1863年、アメリカの漫画家トマス・ナストが、これまで伝わってきた話を参考に、サンタクロースの絵を描きました。今日見られるように、とんがり帽子に赤い服を着て、白いひげをはやしたサンタクロースの姿は、このナストの絵によって誕生したのです。 ☆ クリスマスは、神が人間との関係を回復するために、ご自身の方からひとり子を十字架にかけるために与えてくださった愛の時です。 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。聖書1.ヨハネ 4章10節...
サンクスギビングデー

サンクスギビングデー

11月 (霜月), 歴史
なぜ七面鳥を食べるの?  いろいろな説がありますが、コロンブスがアメリカ大陸に到着してから、ヨーロッパ諸国は、アメリカ大陸を「新世界」と呼び、植民地計画を進めていました。当時、宗教改革の嵐が吹き荒れていたイギリスでは、分離派のピューリタンが、国教会の弾圧を逃れてオランダに亡命していましたが、生活苦に悩まされた彼らは、信仰に基づいて自由に生活できる地を求め、アメリカ大陸に渡ることを決意。ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた彼らは、メイフラワー号(Mayflower)で1620年の冬、マサチューセッツ州のプリマスに到着しました。だが、寒さと食糧不足のため、102人いた彼らのうち半分以上が死んでしまい、残った者は、先住民であるインディアンから狩猟や農耕を学び、春と夏を必死で働きました。そして、収穫の秋がやってきたとき、収穫を喜び、神に感謝をするため、彼らは集い、会食を催しました。その席に、彼らの恩人でもあるインディアンも招かれ、七面鳥やかぼちゃなどを食べ、神に感謝を捧げました。これが、現在のThanksgivingの始まりです。クリスマスやイースターなど、神に感謝する特別な日に、何も豪華な物がなかった中で、少しでも色をそえようとしたのでしょう。私たちの食卓にも、神への感謝がなによりのご馳走にならなければなりませんね。 アメリカでは、どんなふうに祝うの?  毎年、11月第4木曜日のThanksgiving Dayと、翌日のAfter Thanksgiving Day、そして土日を合わせた4連休は、学校、会社、公共機関などのほとんどが休みとなる。水曜の夜には、アメリカ人は皆、故郷に帰るための大移動を開始。この日は、高速道路や交通機関が1年で最も混雑する日だ(まるで日本のお盆やお正月?)。そしてThanksgiving Day当日は、七面鳥やパンプ...