日曜日, 4月 28キリスト教・例話集・週報アイデア集
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26人の殉教 (4/8)

26人の殉教 (4/8)

以下は、村井寛一編修・発行「ふたたび移った日本二十六聖人殉教地」を参考にしました。 文久三年(1863)長崎に渡来したパリ外国宣教会神父ベルナルド・タデオ・プチジャンが、長崎の地図を手に尋ね回った挙句、大体の推測から立山の一部である茶臼山、俗にいう女風頭(めざがしら)を二十六聖人殉教の聖地とした。  その後、様々な検討が加えられて、いわゆる殉教者の丘は女風頭よりもずっと下手で、首塚にもあまり遠くない、そして海に突出した西坂の丘(西坂町)が正しいと考えられるようになった。  昭和十五年、日本殉教者の記念のために、カトリック長崎教区が西坂の丘付近の西坂町坊主岩の敷地を購入し、信者等の奉仕によって地開き工事が行われたが、計画された大記念塔の建立は戦争の激化のため見送られた。  終戦後、真の殉教地跡と特定された西坂の丘が公園化され、昭和三十七年(1962)殉教記念碑、二十六聖人記念館、記念礼拝堂が完成し、二十六聖人列聖百年祭典が催された。 プチジャン神父は日仏通商条約の定めに従い、元冶元年(1864)十二月南山手町に日本二十六聖殉教者大浦天主堂(現在、国宝)を建立した。この天主堂は、柱に籐の木を使った寄せ棟(ゴシック)風建築で、天草の大工小山秀之進の施工により、西坂の聖地に向け建てられた。神父が前述したように茶臼山を聖地と考えていたなら、天主堂の正面は、そこから港をかすめた遥か北のかた二 ・三キロに望まれる西坂の丘から、右に五度ほど振れた方向に向いているはずである。それを確かめようと私は正面に立ってみたが、目測では到底確認できなかった。   1865年3月17日、この天主堂内でプチジャン神父が、二百五十年の禁教と迫害に耐えてひそかに信仰を受け継いできた信徒を発見するという奇跡が生まれた。

この二十六聖人のうち、コスメ竹屋・パウロ茨木・レオン烏丸・ルドビコ茨木・パウロ鈴木ら五人が尾張出身であった。以下は谷真介著「二十六の十字架」からの引用である。

■聖コスメ・竹屋  尾張出身の刀の研ぎ師。イエズス会士から洗礼を受けましたが、バウチスタ神父が都に修道院をつくるときミゲル・小崎たちとともに揮カし、のちフランシスコ会に移って、伝道士となりました。説教師として大阪の修道院で働いているとき、マルチノ神父とともに逮捕されました。

■聖パウロ・茨木 尾張出身の桶屋。フランシスコ会の説教師レオン・烏丸の兄で、ルドビコ・茨木の父。年齢不明。パウロ・茨木と最年少十二歳のルドビコ・茨木の父子、レオン・烏丸の三人は、秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)で日本軍に捕らわれ、連行されてきた朝鮮人であったともいわれます。三人が受洗したのは日本へつれてこられてからで、この説にしたがえばルドビコは日本にきたとき、五、六歳だったということになります。なお韓国の有名な殉教地、ソウルの切頭山聖地(注参照)に三人の記念碑があります。 (注)韓国ではキリスト教を信じる者はみな殺しにされ、首を切って積み上げた所が切頭山と呼ばれ、現在カトリックの聖地になっている。

■聖ルドビコ・茨木 尾張出身の最年少の殉教者。ルドビコは都の修道院で神父や病人たちの世話をしていました。利発な子ではありませんでしたが、明るい無邪気な性質で、大阪から長い旅のあいだでも、その性質が発揮されました。殉教者たちはいつもにこやかに行動しているルドビコに、心をなぐさめられたと語っています。十二歳。

■聖レオン・烏丸 尾張出身の伝道士で、都の病院で妻とともにハンセン病患者たちの世話をしていました。ルドビコ・茨木のおじ。四十八歳。

■聖パウロ・鈴木 尾張出身。説教師で都の病院の院長をしていました。性格ははげしいものをもっていましたが、深い学識をもち、フランシスコ会でも有数な説教者のひとりとして知られていました。四十九歳。

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