日曜日, 4月 28キリスト教・例話集・週報アイデア集
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2月 (如月)

今年の2月は28日まで

今年の2月は28日まで

2月 (如月), 知識
カレンダーを見ると、2月が28日まであったり、29日であったり、1日が得したり損したりの気分になります。これは『うるう年』との関係ですが、どうして『うるう年』が必要なのでしょうか。 地球が太陽のまわりを1まわりするのに、365.2422日かかります。ところが1年を365日としているので、1年に0.2422日のズレがでてきてしまいます。これが4回たまると0.2422×4で  0.9688日、つまり約1日分になります。それで、4年に1度、2月を29日にすることに決め、日数を調整しているのです。これが『うるう年』で、4年に1度、1年は366日になるのです。 さて昨年はその『うるう年』でしたが、どのようにしたら『うるう年』を覚えてにることができるでしょうか。『うるう年』は、オリンピック、アメリカ大統領選挙の年とかさなっています。ですから、このニュースがでていたら『うるう年』と思えばいいのです。 『うるう年』に生まれた人は、4年に1度の誕生日ですから、普通の人の4分の1の年令・・・ ということもないでしょうが、この日が誕生日という人は、1460人に1人はいるそうです。勿論、この日の誕生日の人には3月1日にするとしても、4年に1度は盛大に誕生日を祝ってあげましょう。...
偉大なこと

偉大なこと

2月 (如月), 人物, 歴史
George Washington、(グレゴリオ暦:1732年2月22日 - 1799年12月14日(ユリウス暦:1731年2月11日生まれ) アメリカの初代大統領は、1731年 2月22日に生まれました。ワシントンといえば、彼の少年時代、父親の大切にしていた桜の木を切り、怒った父親に正直に告白したとして、彼の正直さをあらわすエピソードとして世界的に有名です。ところが、この逸話は、彼の伝記を書いたメイソン・ロック・ウィームスの創作による付け加えなのです。 しかし、この逸話が作り話であったとしても、それを多くの人々が信じてしまうほど彼の人柄はすばらしかったのでしょう。彼は大統領になってからも、「神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である。」と語っています。彼は自分の魅力や力によって、その偉大な仕事をなしとげたわけではありません。神のことばに支えられ、神と共にアメリカの人々を導いていったのです。 旧約時代の偉大な人アブラハムが「神の友と呼ばれた(ヤコブ2:23)」ように、偉大であるかどうかは、その人が生前に人々の目から見て大きなことをしたかどうかではなく、神にあって神と共に歩むこと、そのことが、その人の人生を偉大にするのです。...
バレンタインデー

バレンタインデー

2月 (如月), 歴史, 知識
2月14日のバレンタインデーになると、どこのお菓子屋もハート型のチョコレートでにぎわいます。イエス・キリストの御降誕を記念して祝うクリスマスが、クリスマスケーキを食べて楽しむ日になりつつあるように、バレンタインデーが、その意味も確かめられないまま、チョコレートにふりまわされるのは、とても残念なことです。 聖バレンタインは、3世紀の後半の人々に尊敬されたローマの司祭でした。当時のローマの宗教は多神教で、しかも皇帝をキュリオス(主)と呼んで、神と同じように崇 拝させていた時代でした。イエス・キリストへの信仰をしっかり持ち続けていた彼は、時の皇帝の迫害を受けて殉教した日が 2月14日なのです。それから数十年後、キリスト教はローマ帝国の国教として公認されたのです。 バレンタインというのは英語読みで、イタリア語では『バレンチノ』といいますが、これは『勇敢な兵士』という意味です。彼はイエス・キリストのために勇敢に戦ったのです。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。(Ⅰテモテ6:12) 」と勧められているように、すべてのクリスチャンは、『バレンチノ』でなければなりません。しかしそれは武力で戦うのではなく、神の愛によって悪の力に立ち向かうのです。聖バレンタインは、身よりのない人や悲しんでいる人を愛し、励ましました。商業主義にふりまわされずに、神の愛を豊かにあらわしていきたいものです。 聖バレンタインの殉教にはいろいろな説がありますが、そのうちの1つには皇帝が、聖職に付くものは立派な軍人になれないと信じて結婚制度の廃止を決めたことに対し、聖バレンタインは、そのような政策は神の意志に反すると言ったことが原因とされています。 バレンタインデーを、若い女性のチョクレート騒ぎのときとしてしまうのではなく、「男はその父母を 離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである...
コウモリ

コウモリ

2月 (如月), 知識
  「闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有難さが分るんだ。」   このことばは、27年前の2月に亡くなったプロレタリア作家、小林多喜二の書簡集の一部です。でも読んでみると、クリスチャンの心境もこのようにいえるのではないでしょうか。  私たち人間は、ちょうど暗い洞窟の中にいるコウモリのように、生まれた時から闇の中にいました。ですから光という新しい環境にはなじめません。そんな様子を聖書は次のように述べています。  「すべての人を照らすそのまことの光であるキリストが、この世界に来られた。キリストは、もともとこの世界の主として、この世界を造られたお方であるのに、この世界の人々は、キリストをそのようなお方として認めようとはしなかった。・・・ このキリストを信じる人はだれでも、救っていただくことができる。キリストを信じる人は、神が生まれ変らせてくださる・・・ 」(ヨハネ 1:9,13)  私たちは、コウモリであり続ける自由をもっています。しかし、そこが闇であると気がついたとき、少しの勇気をもって一歩洞窟から出たいと望むならば、もう外には色彩のあふれるすばらしい世界が待っているのです。そしてその時には、もうコウモリではなく、神のあふれる恵みを受け取ることのできる生まれ変った自分に気が付くのです。かつての闇の暗さを多く知っている人こそ、一番本当にこの世の光であるキリストの有難さが分るでしょう。...