木曜日, 5月 9キリスト教・例話集・週報アイデア集
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月: 2012年1月

十二支の話

十二支の話

知識
十二支の話 ●   そろそろ年賀状の整理をしている頃でしょうか。きっとあなたのところに来た年賀状にも、たくさんの龍が描かれていたことでしょう。ではなぜ、その年に特定の動物があてはめられるようになったのでしょうか。 ●  12支というのは、1年の月をあらわすための記号で、上のような漢字をそれぞれにあてはめていました。ですから文字は、順序をあらわすにすぎません。そして、12支を月にあてはめる場合、正月が『寅』で、順に月の名をあらわしていました。 ●   ところが、インドの12宮を支配するという12獣を、これにあてはめるようになりました。ですから、漢字そのものの意味と動物の名とが違っても、そのように読むようになりました。例えば、『子』も『丑』も、ネズミやウシの漢字としての意味はありません。このことを調べてみるとおもしろいでしょう。 ●   また12支は、時刻をあらわすのにも用いられました。真夜中を『子』の刻として、1日に12支を配します。「草木も眠る丑満つ時・・・ 」というのは、午前2時頃です。このようにすると、昼の12時は「牛』ですから、この時を正午というのです。そしてその前が午前であり、その後が午後です。またさらに、12支は方位をあらわすのにも用いられました。北は『子』で、南は『牛』です。ですから北極と南極を結ぶ線が子牛線です。このように12支そのものには、動物の意味するものはありません。 ●   月の名を、動物の名で呼んでもさしつかえありません。日本人ですから、それを年の何して、「今年はウマ年だ。」なんて言うようになったのですね。そして、ネズミ年に生まれたから、チョロチョロして落ち着きがないとか、ウシ年生まれだからノンビリしているとか言うようになったのです。でも、そのように言われてみると、自分がチョロチョロしていたり、ノンビリしているように感じるから、人間の気持ち...
寒中

寒中

知識
寒中 ◆ 『寒中』とは、1月の5日頃から2月3日頃までをいいます。この頃は、空気が乾燥していて寒さのために虫のつくおそれがないので、衣類の虫干しには一番敵している時期といわれています。お天気のよい日を選び、11時頃から2時頃までに片付く分量ずつに分けて、虫干しするとよいでしょう。 ◆ 1月5日は、暦の上で小寒です。この日を寒の入りと呼びます。日本列島が一番厳しい寒さに見舞われるのも『寒中』で、この時期に相手を思いやり励ます手紙が寒中見舞です。年賀状をいただいたけれども返事を出しそびれた方への挨拶などを書くのによい時期です。 ◆ 寒さのため外出を控え、家で過ごす時間が長くなります  年賀状、住所録、アルバム等の整理をしてみましょう。年賀状は15日のお年玉のくじ引がすんでから整理しますが、わざわざ住所録をつくる手間をはぶきたい人は、はがきをそのまま収納するファイルが便利です。住所録は家庭の大切な書類ですから、この時期にきちんと整理しておきましょう。...
新年に死の話?!

新年に死の話?!

1月 (睦月), 知識
 「昔、ある高僧のもとに、元旦に年始にやってきた男が、記念に一筆、何か縁起の良いことを書いて下さい、と頼んだ。快く僧は承知して筆をとると、サラサラと書きつけたそうだ。『親死に、子死に、孫死ぬ』。読んだ男はカンカンに怒って、『正月早々何でそんなことを書くんですか』と抗議すると、僧は静かに微笑して、『いや、こんねええことはないではないか。親が死んでから子が死ぬ。子が死んでから孫が死ぬのでええので、これが逆になったら大変なことだ』と言ったので、その男もなるほどと納得して、その書を大切に持ち帰ったということである。」 この話には、読む人をドキリとさせる組み合わせの面白さがあります。「高僧」と「男」、「元旦」と「死」です。年の初めに死について語る、これはだれでもびっくりします。しかし、ここに高僧とただの男の違いがあるのです。 死は、だれにも必ず訪れるものです。ただ、自分は今死ぬことはないと思っているだけで、1時間後に死ぬかもしれません。死について考えないことが、最も良い方法だと思っているだけです。運動会で、ゴールがわからずに走り出す人はいません。年の初めに、死をしっかりと見据える、これはスタートに立ってゴールを確認することです。勿論クリスチャンにとって、肉体の死がゴールではなく、その先もあるのですが、死に勝利したキリストに自分のすべてを置く決意を、年の初めにあたってしましょう。そうするならば、困難も病気も死も、私たちにとって心をひきさくものではありません。...
シャルル・ペギー (1873年1月7日生)

シャルル・ペギー (1873年1月7日生)

1月 (睦月), 人物
シャルル・ペギー (1873年1月7日生) (Charles Péguy、1873年1月7日 - 1914年9月5日) 1873年1月7日生まれのフランスの文学者シャルル・ペギーは、その著書『金銭』の中で次のように言っています。 「いまだかつて金銭がこれほどまでに、唯一の主人であり、神であったためしはない。・・・ かくも現実的なるものが精神的なるものにたいして防禦されていたためしはなく、かくも精神的なるものが現実的なるものにたいして無防禦であったためしはない。」 100年ほど前のペギーのことばは、現在のしかも日本の私たちにぴったりの警告のことばのような気がします。私たちが外国の人々から、エコノミックアニマルと言われて久しいですが、その体質は、一向に変わってはいません。しかも、クリスチャンの中にもそうした体質があるとしたら、注意しなければなりません。経済的に豊かになること、自分の願い通りに事が進むこと、これらが神の祝福であり、信仰の成長であると考えたら、私たちは金銭を神とすることになるでしょう。イエス・キリストは、この地上を歩まれた時、何一つこのような意味での神の祝福を持ったことはありませんし、求めたことはありませんでした。「人の子には枕する所もありません。」と語られたイエスは、復活までの一時の十字架から降ろされた御自身のからだを置くための墓も、他の人が用意したものを受けました。 今年、新しい主の導きを期待して始めたあなたの目標は何でしょうか。「現実的なるもの」でしょうか、「精神的なもの」でしょうか。あなたの定めた目標が、神の意図からはずれたものであるなら、あなたの努力と期待は、むなしいものになります。 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)...
新年

新年

1月 (睦月), 知識
『新年』・・・ このことばは、私たちの心に、ある種の期待感をいだかせます。失敗した者には、やり直しのチャンスを、マンネリに苦しんでいる者には、脱出の道を、・・・ そうした挑戦への入口に私たちは立っているのです。 その扉は、平穏無事を望み、楽しみを求めるための休息を願っている者にはふさわしくありません。それはちょうど、頂上を見上げて、力強く登ろうとしている登山家のような意気込みをもった者にこそ、押し開かれるのです。 神の山を登る者には、危険な岩場が待ち受けています。はらはらするような細い道もあります。一時の休息はありますが、長い時間休んでいることは許されません。さらに高みを目指して登らなければならないからです。しかし、吹雪があるときには、じっと動かずに待っているという忍耐も要求されます。 しかし、その山に一人で登るのではありません。聖霊という助けるお方がいるのです。この方によって、私たちは次のような体験をするでしょう。 「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」  聖書  ハバクク書 3章19節 神は確約されない  空がいつも青く  年中  道に花が咲いているとは 神は約束されていない  晴天の日だけで  雨が降らないことを  喜びだけで  悲しみはなく  平安のみで傷つき痛むことがないとは 神は約束された  日ごとに必要な力を  労く疲れた者には休息を  道を歩む者には光を  すべての試練に恵みを  上よりの助けを  決して変わらぬ哀れみを  たえることなき永遠の愛を                                                  (アニー・J・フリント)...