木曜日, 5月 9キリスト教・例話集・週報アイデア集
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月: 2012年3月

26人の殉教 (8/8)

26人の殉教 (8/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (8/8) (18)聖レオン烏丸 尾張、伝道士 パウロ茨木の弟。フランシスコ会士のもとで伝道士。 数年間僧侶の職にあったが、イエズス会の神父の教えを聞きキリシタンとなった。 フランシスコ会が来日したとき、かれらを助け京都、大阪の修道院建設に尽力した。 聖アンナ病院の院長となつたが、自ら患者のただれた体を拭き清め、衣類を川で洗濯していた。 京都市中の人達に尽力し、「神の聖役者」と呼ばれる。 殉教時の年齢48歳 (19)聖ボナベントゥラ 京都 出生後受洗。両親の死により子供のときに寺に預けられ、20年以上も仏僧として過ごす。 ある日、自分が幼少のころ洗礼を受けていたこと知り、フランシスコ会を訪ね、修道士見習いとして教理の勉強に励むようになる。 布教に尽力。  殉教時の年齢不詳、日本名不詳 (20)聖トマス小崎 伊勢 ミカエル小崎の息子。11歳のとき、京都の修道院建立のため働く大工と親しくなり、キリストの教を受けるようになる。 マルチノの神父を手伝う信仰深い少年で、司祭になる希望を持つ。 母親にあてた手紙は感動的。 殉教時の年齢14歳 (21)聖ヨアキム榊原 大阪 武士の出で最初は医学を学んだ。ある日、宣教師の説教にひかれ受洗。 大阪の修道院建設を助け、その修道院の料理番となり、そこで捕えられた。  殉教時の年齢40歳 (22)聖フランシスコ医師 京都、医師 豊後の大名、大友宗麟の侍医を務める。 秀吉の征韓の役に医師として従軍したとき、あるキリシタン侍からキリストの教えを学び、フランシスコ会の修道院を訪れた。 京都で洗礼を受け、聖ヨゼフ病院で活躍。  最初には処刑者の名簿に載っていなかったが、迫害に抗議し、その結果として処刑者の名簿に載ることとなり、殉教した。 殉教時の年齢46歳 (23)聖トマス談義者 伊勢、薬種商 キリシタンの教えを聞き改宗。その後、...
26人の殉教 (7/8)

26人の殉教 (7/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (7/8) (12)聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン  スペイン、アギラ、司祭 18歳のときフランシスコ会に入会。メキシコを経てフィリピンへ赴任した。 1596年半ば、ブランコ神父とともに来日。わずか数か月で日本語を自由に話せるほどになった。 ヤリで体を突かれる時、大声で「主よ、わが魂を御手に委ねます」と叫んだ。 ヤリの柄が抜けて穂先が残ったため、穂先を手で引き抜かなければならなかった。  殉教時の年齢30歳 (13)聖フィリッポ・デ・ヘスス メキシコ、修道士 スペイン人を父母として、メキシコで生まれた。 青年時代、少し放縦な生活を送った彼は、両親により商業のみちへ進むようフィリピンへ送られた。 フランシスコ会で司祭になるために勉強を始め、司祭叙階のため、サン・フェリペ号でメキシコへ向かう途中、嵐に会い日本へ漂着。京都のフランシスコ会修道院にいたとき逮捕。 喜びの涙を流し、賛歌を歌って息を引き取る。  殉教時の年齢24歳 (14)聖ゴンザロ・ガルシア インド、修道士 ポルトガル人を父、インド人を母としてインドに生まれる。 16歳のとき来日し、イエズス会司祭のもとで伝道士として働く。その後、マニラに渡りフランシスコ会の修道士となる。 日本語に熟達していたため、通訳として1593年再来日し、フランシスコ会の布教活動を助けた。 ヤリで突かれる前、刑吏に悔悛と改宗をすすめたという。 殉教時の年齢40歳 (15)聖フランシスコ・ブランコ スペイン、ガルシア、司祭 神学校在学中にメキシコへ渡り、フィリピンへ行く前に司祭に叙階。  フィリピンでマルチノ神父に師事し、神父とともに来日。 熱心に日本語を学び、数か月で日本語で教えを説き、告解を聞けるほどになった。 十字架にはりつけられた時の顔の微笑が死後も消えなかったという。  殉教時の年齢28歳 (16)聖フランシス...
26人の殉教 (6/8)

26人の殉教 (6/8)

人物, 歴史, 知識
26人の殉教 (6/8) ( 6)聖パウロ三木 摂津、イルマン(修道者) 武家の子として生まれる。5歳のとき、両親と共に洗礼を受けた。 10歳ごろ安土城下のセミナリオで勉強を始め、22歳のときイエズス会に入会した。 仏教の教議に詳しかったので、仏教とキリスト教の教えを対比して説いた。 大阪のイエズス会修道院で捕えられる。 「わたしは何の罪も犯したわけではござらぬ。キリシタンの教えを広めただけで処刑されまする・・・」と群衆に言い残して処刑される。 殉教時の年齢33歳 ( 7)聖パウロ茨木 尾張、桶屋 レオン烏丸の兄。もともとは武士の出であるが、当時は貧しい桶屋を営んでいた。 殉教の2年前、棄教しようとしたが、ゴンザロ・ガルシア修道士の指導によって克服した。 弟レオン烏丸と共に貧者、病人の世話をし、布教に力を尽くす。 ペトロ・バプチスタ司祭の忠実な伴侶であった。長崎への殉教の道でも、妻、母や他のキリシタン達に手紙を寄せ、信仰を固く守るように励ました。 死を前に「神よ、あなたに命をささげます」と祈る。 殉教時の年齢54歳 ( 8)聖ヨハネ五島 五島、イルマン(修道者) 五島に、熱心なキリシタンを両親として生まれる。 幼少のころ、長崎のイエズス会士に引き取られ教育された。 パウロ三木とともに、大阪で捕えられたが、逃れようとすれば逃れられた。しかし進んで殉教者の列に加わることを望んだ。殉教の数時間前に、イエズス会への入会が認められ、十字架にかけられた。 「父上も神の教えのまことを信じ、怠りなく神にお仕えくださるよう・・・」と 言って自分のロザリオを父に渡す。 殉教時の年齢19歳 ( 9)聖ルドビコ茨木 尾張 レオ烏丸とパウロ茨木は叔父にあたる。 殉教の1年前に受洗。いつも明るく朗らかであった。 京都の聖フランシスコ会修道院で侍者として仕える。 司祭が逮捕された時、彼は除外され...
26人の殉教 (5/8)

26人の殉教 (5/8)

人物, 歴史
26人の殉教 (5/8) 秀吉の最初の朝鮮出兵は、文禄元年(1592)であるから、三人の朝鮮人がキリシタンとして捕らわれるまで四年が経過している。  朝鮮半島へのキリスト教の伝来は、まず、八世紀に唐から景教(注参照)がやってきたことが考えられる。更に時代が下って文禄の役の時、セスペデス神父が日本軍に従軍して半島に渡って宣教した。しかし、これらは民衆に何ら影響を与えるものではなかった。  従って彼らは来日後、尾張で指導を受けてキリシタンになったものと考えざるを得ない。五人が京に上ったのは当時、布教の立ち上がりで人手を必要としたフランシスコ会の求めに応じたのであろう。  (注)景教:唐代、中国に伝わったネストリウス派のキリスト教。王室の保護で盛んになったが、唐末にはほとんど滅亡。のち、蒙古民族の興隆とともに再び起こったが、元の滅亡とともに衰滅した。   日本二十六聖人  (http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/26seijin/index.html) 二十六聖人像(船越保武作) 26人は腰に布を巻いただけの姿で殉教しましたが、意図的に着衣の姿となっています。 ()の番号は「日本26聖人記念碑」の像に向かって右から左への順序です。 ( 1)聖フランシスコ吉 京都、大工 京都のフランシスコ会修道院の近くにすむ。迫害の9か月前に受洗したばかり。 逮捕されてはいないが、殉教者と行を共にしたいと願い、長崎への途中で捕えられ、殉教者に加えられる。 殉教時の年齢不詳 ( 2)聖コスメ竹屋 尾張、刀研師 レオ烏丸とともに京都の修道院の建設に尽力した。 洗礼後、伝道士として大阪のマルティン神父を助ける。 愛をもって病人の世話をし、神父の支えとなった。 マルティン神父と共に大阪の修道院にいたときに捕えられる。 殉教時の年齢38歳? ( 3)聖ペトロ...