金曜日, 5月 10キリスト教・例話集・週報アイデア集
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歴史

神々のいない月 – 10月

神々のいない月 – 10月

10月 (神無月), 歴史
神と神々 日本に住む私たちが、他の人にキリストについての信仰を語る時に困難を覚えるのは、一般の人々が感じている神と、聖書の語る神の違いが、うまく伝わらないということではないでしょうか。それにはこんな歴史があります。 16世紀の中頃に、日本にキリスト教が伝えられましたが、当初、キリスト教では、その神を「大日」とよんでいましたが、大日如来との混同をさけて「デウス」「天主」「天帝」等とよぶようになりました。明治初年に、キリスト教の神がさかんに説かれるようになりましたが、日本のカミと混同しないように、「天」「上帝」「真神」等の訳語が用いられましたが、聖書の翻訳にあたって、「GOD」の訳語がきまらず、委員の票決によって、一票差で「神」が採用され、この後は、「神」と訳すことが一般化しました。 全国の神々が集まるといわれる出雲大社の祭神は、オオクニヌシノミコトです。出雲大社は、天正19年(1591年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関して、軍資金供出のために神領を召し上げられたため、経済的に困り、全国へ巡回布教師を送り出し、現世利益の縁結びという宣伝をしたら、ヒットしたというわけです。 私たちは皆、幸せを求めて生活をしており、現世利益を求める気持は持っています。しかし、キリストに出会ったから後も、自分の願いだけを持ち続けて、キリストを信仰していこうとするならば、他の神々を信じるのと同じになり、結局その願いがかなえられなければ、信仰そのものを失うことになりかねません。聖書の原則は、あなたの願いをかなえるから神に信頼しなさいというのではなく、その逆で、神に信頼するなら、あなたの生活は守神がるというものです。 「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記 28:2)...
新しい実ができる為に(自分はどうか考えてみて下さい)

新しい実ができる為に(自分はどうか考えてみて下さい)

歴史
  「クリスチャン」それは、キリストの愛を心の中に持ち、キリストが生きたように生きる者です。それはただ心の中で信じているということではなく、行ないにあらわす者です。自分はクリスチャンであると語りながら、心の中に偶像を抱いてはいないかどうか、次の酋長ツイアビの言葉で点検してみましょう。   聖書の言葉 ・・・愛のあるものはみな神から生まれ、神を知っています。    ルカ 6:38 パパラギ  最終回  (パパラギとは白人または文明人の意味) はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集   パパラギは自分たちのことを、キリストを信じるものと呼ぶ。もっとも美しい歌のような言葉、キリスト者。ああ、私たちが永遠にキリストを信じるものでいられたら。キリスト者であるということは、最初の大いなる神を愛し、兄弟を愛し、そして最後に自分を愛することだ。愛とは善行を為すことであり、愛は私たちのからだの中の血のように、私たちとまったくひとつのものでなければならぬ。頭と手とがひとつであるように。   パパラギはキリストも神も愛も、ただの言葉として口にするだけだ。舌をたたいて、うるさい音を立てるだけ。そして彼らの心と愛は、神さまにではなく、ただいろいろの「物」に、丸い金属(硬貨)と重たい紙(紙幣)に、快楽の思いや、いろいろの機械の前にひざまずいている。そして彼らの心に光りはなく、時間をむさぼる野蛮な貪欲さと、職業として彼らが犯す馬鹿馬鹿しさが、彼らの中にあふれている。神さまのところへ一回行くよりは、まやかしの暮らしのある場所へ十回も行きたがる。神さまはもう遠くへ遠くへ行ってしまわれた。   愛する兄弟たちよ、もし、私たちが神さまと同様にあがめ、尊び、最愛のものとして胸に抱くものを偶像というなら、パパラギは今、むかし私たちが持っていたよりも、ずっとたくさんの偶像を持っている。神さまは、パパ...
新しい実ができる為に(自分はどうか考えてみて下さい)

新しい実ができる為に(自分はどうか考えてみて下さい)

歴史
サモアの酋長ツイアビはこのようなことも言っています。 熟せば  ヤシは葉も実も落とす  パパラギの生き方は  未熟なヤシが  葉も実もしっかり  かかえているようなもの  「それはおれのだ!  持って行っちゃいけない食べちゃいけない!」  それじゃどうして  新しい実がなる?  ヤシの木のほうがパパラギよりも  ずっとかしこい   聖書の言葉 ・・・・・  与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。      ルカ 6:38 パパラギ  その4  (パパラギとは白人または文明人の意味) はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集   パパラギが、神の言いつけを聞かず、自分たちの掟を作ったので、神はパパラギの財産にたくさんの敵を送られた。パパラギの「おれのもの」を打ちこわすために、湿気と熱を送られた。パパラギのものは、やがて古び、ぼろぼろになり、腐って行く。神は、彼らの財宝におそいかからせるために、火に大きな力を与えた。そして嵐にも。だが、なかでも重く神が定めたもうたのは、パパラギの心の中に恐怖を植えつけたことである。取ってきたものをなくしはしまいか、という不安。パパラギは決して深く眠ったことがない。昼間に集めてきたものを夜のあいだに持っていかれないよう、覚めていなければならないから。   おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。サモアの一つの村なら村びと全部がはいれるほど大きな小屋を持ちながら、旅びとにたった一夜の宿も貸さない人。こんな人間をどう思うか。手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。   私にはおまえたちの目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、そ...
何を所有すべきか?(自分はどうか考えてみて下さい)

何を所有すべきか?(自分はどうか考えてみて下さい)

歴史
自分の財産、家庭、時間、能力、そして生命・・・ これを私たちはどのように意識しているでしょうか。「これは神さまからお預かりしているもの」と口では言いながら、自分の楽しみのために、それらをどれだけ多く使っていることでしょう。そして、神との交わりをする時間以上に、自分の所有物をふやすための努力を、いかに多くしていることでしょう。神御自身の御霊を私たちが所有していることが、いかにすばらしいものであるか、もう一度考えてみましょう。 パパラギ  その3  (パパラギとは白人または文明人の意味) はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 パパラギは一種特別な、そして最高にこんがらがった考え方をする。彼はいつでも、どうしたらあるものが自分の役に立つか、そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。それもたいてい、ただひとりだけのためであり、みんなのためではない。このひとりというのは、自分自身のことである。 もし、ある男がこう言うとする。「おれの頭はおれのもので、おれ以外のだれのものでもない」それはそうなのだ。たしかにそのとおりだ。それについてだれも文句を言えるものはない。手の持ち主以上に、その手の権利を持っているものはない。ここまでならパパラギは正しいと思う。だがその先、パパラギはこうも言う。「このヤシはおれのものだ」なぜかというと、ヤシがそのパパラギの小屋の前に生えているから。まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように。ヤシは、決してだれのものでもない。 決してそうではない。ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持っておられる。どの木も、どの花も、どの草も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。 私たちにはその手を握って喜ぶことは許される。だがしかし、こう言ってはならない。「神の手はおれの手だ」しかしパパラギはそ...
物質主義とは幸せなのか?(自分はどうか考えてみて下さい)

物質主義とは幸せなのか?(自分はどうか考えてみて下さい)

歴史
物・物・物 ・・・私たちは物に囲まれて生活しています。そうすると、自分の所有する『物』が無いと、自分は不幸だと思います。この考えを、キリスト者は軽視するわけにはいきません。なぜなら、キリスト者であっても、物が無いのは不幸だと思う考えが心の片隅にあり、そのために不安になったり、主に求めて祈ったりするからです。勿論、私たちが生活をするためには、『物』は必要ですが、私たちはこの地上では旅人であり寄留者であることを覚えましょう。そして、父である神御自身が、神の子である私たちに必要な『物』を最もよく知っておられることを覚え、主にゆだねましょう。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。                        聖書・マタイの福音書6章33節 パパラギ  その2 (パパラギとは白人または文明人の意味) はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 それからパパラギは、私たちのことについてこうも言っている。 「きみたちは貧しく不幸せだ。きみたちには、多くの援助と同情が必要だ。きみたちは何も持っていないではないか」 たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か、おまえたちに告げよう。・・・ たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも、腕輪も、食事の皿も、髪飾りも、すべてこれらは物である。 しかし、物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や、貝や、バナナのように、私たち人間が何の苦労も労働もせず、あの大いなる心(神)が造り出す物である。いまひとつは、指輪や、食事の皿や、ハエたたきのように、たくさんの人間が苦労し、労働をして作り出すものである。アリイ(紳士)が言う物とは、彼が自分の手で作った、人間が作った物のことであり、私たちが何も持っていないと言われるのは、こうした物のことである...
本当の幸せとは?(自分の生活はどうか考えてみてください)

本当の幸せとは?(自分の生活はどうか考えてみてください)

歴史
ウポル島(西サモア)に住む酋長ツイアビが、20世紀のはじめにヨーロッパに行き、機械文明というものを初めて見た時の印象を彼独自の表現の仕方であらわした本があります。それが『パパラギ』です。パパラギとは白人を意味するそうですが、文明人という意味もあり、文明社会といわれるものに、やや批判的に用いられているのかもしれません。酋長はじめこの島の人々は、キリスト教を信じています。信仰の純粋さのゆえに、今の私たちがドキリとさせられるような文が載っています。原題の『パパラギ』(独:Der Papalagi)は、1920年にドイツで画家で作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍で、サモアの酋長ツイアビが訪問したヨーロッパについて話した演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手になるフィクションと言われています。それを今回から5回のシリーズで連載いたします。 パパラギ  その1 はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 かしこい兄弟たちよ、信仰の心をもって耳傾け、おまえたちが白人の持つような悪意を持たず、文明人が怖れることを怖れずにいるのはしあわせだと思わねばならない。… おまえたちも、あの宣教師の言葉をはっきりと覚えているだろう。「神は愛である。ひとりの真の救世主が常に愛そのものであるという善をなしたもうた。だからこそ白人の崇拝は、大いなる神にのみ向けられる」と。 宣教師は私たちに嘘をつき、私たちをあざむいた。パパラギが宣教師を買収し、大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。丸い金属と重たい紙、彼らがお金と呼んでいる、これが文明人たちの本当の神さまだ。 愛の神について、ヨーロッパ人に話してみるがよい ー  顔をしかめて苦笑いするだけだ。考え方が子どもじみていると言って笑うのだ。ところが、ぴかぴか光る丸い形の金属か大きい重たい紙を渡してみるがよ...
日航機墜落事故から

日航機墜落事故から

歴史
1985年 8月12日に発生した日本航空123便の墜落事故では搭乗員524名中520名が死亡した。その墜落する飛行機の中で遺書を残した河口さん。その長女真理子さんは、「あれほど冷静な父が、遺書の中で『どうか神様たすけて下さい』と書き残したのをみると、本当に怖かったのだと思います。」と語りました。「どうか神様たすけてください」このことばには、人としての真実の叫びがあります。そして人は神を求めるものであることも教えています。   日頃、神を知らない人は、神を知らないゆえに、神を求めません。しかし、神を知った人は、1度知ったことがあるというそれだけで、神を軽んじてしまうことがないでしょうか。「どうか神様たすけてください」これほどの真実の心をもって、神を呼び求めているでしょうか。義務的な心からではなく、日常の惰性的な気持からではなく、真実の心の叫びをもって神を求めていくべきです。   また奇跡的に助かった日航のアシスタントパーサー落合さんの証言で、パニック状態の中でも人々の助け合いが見られたなど、この墜落事故から、人間とは、生きるということについてなど、多くの人々に考えさせる機会となりました。  私たちは、今一度日々を大切に生きることを考えてみましょう。   「主を呼び求める者はすべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられる。」(詩篇145:18)...
復活についての証言

復活についての証言

キリスト教, 歴史, 知識
多くの人たちは奇跡について信じようとはしません。しかし、最大の奇跡は、イエス・キリストの復活です。イエスがいろいろと不思議なわざをなされたことによって、イエスの偉大さを証明するだけならば、すでに多くのわざをされてきました。 しかし、イエスの『復活』は、 1.福音の中心の真理 2.イエス・キリストの神性を確証 3.キリストの祭司の働きを確証 4.十字架の救いを確証 5.最後の審判のあることを確証 6.信者も復活することの確証 ということを含んでおり、復活のない福音は無意味なのです。では、復活が事実あったと、なぜいえるのでしょうか。 ●「空になった墓」によって明らかです。 ・主イエスは、完全に埋葬され、ローマ兵の厳重な 警戒の中でよみがえられました。 ●「霊のからだ」によって明らかです。 ・主イエスは、霊のからだをもって、人々の前に   あらわれました。それは、外見は埋葬前の肉体と 同じようでしたが、時間や空間の制約を受ける   ことのないからだでした。 ●「預言の成就」によって明らかです。 ・旧約聖書(詩篇 16:10) にもあり、またイエス   御自身も復活について預言していました。 ●「目撃く」によって明らかです。 ・マリヤ(ヨハネ20:16, マタイ28:9,10)  ・ペテロ(ルカ24:34) ・弟子たち(ヨハネ20:19,20)  ・500人以上の人々(Ⅰコリント15:6) ...
死と復活

死と復活

キリスト教, 歴史
イースター(復活節)を前にして、『復活』という不思議な出来事を考えてみましょう。なぜ、不思議なのかというと、現在まで数えきれないほどの人々が生まれてきましたがたった1人を除いて、すべての人が死んでいきました。そのたった1人とは、イエス・キリストです。彼は他のすべての人が『死』というかたちを迎えたままであるのに、『死』を迎えましたがそれで終わることがなく、『復活』しました。 死とはなんでしょうか。『死』とは、人の肉体と魂が分かれることです。分離したあとの肉体は、時間とともに変化していって、やがてちりになります。私たちは、このような『死』について多くを見ています。ですから『復活』については聖書の語るイエス・キリストの姿を信じるよりほかに方法を知りません。 『復活』とは、死によって一旦別れた魂と肉体とが再び合体して、死よりよみがえることをいいます。その時の肉体とは、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ 3:21)」とあるように、一種不思議なからだです。でも、実体のないからだではありません。イエスがそうであったように、肉もあれば骨もあるからだで、食事もすることができた、目で見、手でさわることのできるからだです。このからだは、永遠に変わることがありません。これがからだの救いです。 「私たち自身も・・・・・ 私たちのからだの購われることを待ち望んであます。」 (ローマ8:23)...
ニュートン

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3月 (弥生), 人物, 歴史
リンゴの実が落ちるのを見て、万有引力を発見したといわれて有名な、アイザック・ニュートンは、1727年 3月20日永眠しました。時に84歳でした。ニュートンは、イギリスの物理学者であり、天文学者、数学者でもありますが、神学にまで業績を数多く残しました。よく、科学と宗教は一致しないかのように言われることがありますが、彼の中ではキリストに対する信仰と科学する心が、一つとなっていました。その彼の人柄をあらわすエピソードを紹介しましょう。 ● 研究に没頭する彼の部屋に、ある日1匹のハエが迷い込んでうるさく飛び回りました。彼はこれをつかまえて、窓から放してやりながら言いました。「邪魔するなよ、世界は二人にためには広すぎるじゃないか。」また彼の謙遜な姿は、次のことばにもあらわれています。 ● 「私は自分が世間の眼に、どのようにみえるかは知らない。しかし、私自身の眼には「真理」の大洋が私の前に未発見のまま横たわっているとき、海岸でたわむれつつ、ときどき普通のよりもいっそうなめらかな小石、またはいっそうきれいな貝殻を見つけて、打ち興じている少年に似ていたように思える。」 ● 「いかなる世俗の歴史におけるもの学りも、聖書の中には確かな真理がある。」力学体系をつくり、微積分法を発明し、光のスペクトル分析など、近代科学の建設者のことばとしては、なんと謙虚なことばでしょうか。...