月曜日, 5月 20キリスト教・例話集・週報アイデア集
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新しい実ができる為に(自分はどうか考えてみて下さい)

  「クリスチャン」それは、キリストの愛を心の中に持ち、キリストが生きたように生きる者です。それはただ心の中で信じているということではなく、行ないにあらわす者です。自分はクリスチャンであると語りながら、心の中に偶像を抱いてはいないかどうか、次の酋長ツイアビの言葉で点検してみましょう。

  聖書の言葉 ・・・愛のあるものはみな神から生まれ、神を知っています。    ルカ 6:38

パパラギ その5パパラギ  最終回  (パパラギとは白人または文明人の意味)
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

  パパラギは自分たちのことを、キリストを信じるものと呼ぶ。もっとも美しい歌のような言葉、キリスト者。ああ、私たちが永遠にキリストを信じるものでいられたら。キリスト者であるということは、最初の大いなる神を愛し、兄弟を愛し、そして最後に自分を愛することだ。愛とは善行を為すことであり、愛は私たちのからだの中の血のように、私たちとまったくひとつのものでなければならぬ。頭と手とがひとつであるように。

  パパラギはキリストも神も愛も、ただの言葉として口にするだけだ。舌をたたいて、うるさい音を立てるだけ。そして彼らの心と愛は、神さまにではなく、ただいろいろの「物」に、丸い金属(硬貨)と重たい紙(紙幣)に、快楽の思いや、いろいろの機械の前にひざまずいている。そして彼らの心に光りはなく、時間をむさぼる野蛮な貪欲さと、職業として彼らが犯す馬鹿馬鹿しさが、彼らの中にあふれている。神さまのところへ一回行くよりは、まやかしの暮らしのある場所へ十回も行きたがる。神さまはもう遠くへ遠くへ行ってしまわれた。

  愛する兄弟たちよ、もし、私たちが神さまと同様にあがめ、尊び、最愛のものとして胸に抱くものを偶像というなら、パパラギは今、むかし私たちが持っていたよりも、ずっとたくさんの偶像を持っている。神さまは、パパラギが胸に抱く最愛のものでは決してない。だからこそ彼らは、神さまのご意志ではなく、アイツウ(悪魔・悪霊)の意志で動く。

  兄弟よ、神さまの愛とおまえたちへの愛が、私の心に満ちている。だからこそ神さまは私に小さな声を与えてくださり、これまでおまえたちに語ったようなことを、すべて私は語ることができた。

  私たちはさらに誓いを立て、彼らに呼びかけよう。私たちに近づくな。おまえたちの喜びと快楽を持って私たちに近づくな。腕にも、頭にも富を求め、かき集めてきた野蛮な掠奪物を持って私たちに近づくな。兄弟よりも豊かであろうとする貪欲さ、たくさんの無意味な行ない、むやみやたらに手を動かす物作り、好奇心だけでものを考えて、なんにも知らない知識、そういうがらくたを持って私たちがる寄るな。むしろの上のおまえたちを、安らかに眠らせることさえしないあらゆる馬鹿馬鹿しい行ない。そういうものを、私たちはいっさい必要としない。私たちは神さまからたっぷりといただいた、気高く美しい喜びでじゅうぶん満足できる。私たちが神の光りに目がくらみ、迷路へ迷いこんでしまわないように、そうではなくて、神の光りがあらゆる道を照らし、私たちが光りの中を歩めるよう、自分たちの心の底で、神の光りを受け止めるよう、神さまがどうか、私たちを助けてくださるように。神さまの光り、そう、それはたがいに愛し合い、心にいっぱいのタロファ(あいさつ)を作ることと。

この記事を読んでどう思いますか。キリスト者の生き方はどのようにすべきだと
思いますか?  私の願いは、愛を実践する教会になっていきたいと思います。 (MN)

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