サモアの酋長ツイアビはこのようなことも言っています。
熟せば ヤシは葉も実も落とす パパラギの生き方は 未熟なヤシが 葉も実もしっかり かかえているようなもの 「それはおれのだ! 持って行っちゃいけない食べちゃいけない!」 それじゃどうして 新しい実がなる? ヤシの木のほうがパパラギよりも ずっとかしこい
聖書の言葉 ・・・・・ 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。 ルカ 6:38
パパラギ その4 (パパラギとは白人または文明人の意味)
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集
パパラギが、神の言いつけを聞かず、自分たちの掟を作ったので、神はパパラギの財産にたくさんの敵を送られた。パパラギの「おれのもの」を打ちこわすために、湿気と熱を送られた。パパラギのものは、やがて古び、ぼろぼろになり、腐って行く。神は、彼らの財宝におそいかからせるために、火に大きな力を与えた。そして嵐にも。だが、なかでも重く神が定めたもうたのは、パパラギの心の中に恐怖を植えつけたことである。取ってきたものをなくしはしまいか、という不安。パパラギは決して深く眠ったことがない。昼間に集めてきたものを夜のあいだに持っていかれないよう、覚めていなければならないから。
おお、兄弟たちよ、こんな人間をどう思うか。サモアの一つの村なら村びと全部がはいれるほど大きな小屋を持ちながら、旅びとにたった一夜の宿も貸さない人。こんな人間をどう思うか。手にバナナの房を持ちながら、すぐ目の前の飢えた男に乞われても、ただの一本も分けてやろうとしない人。
私にはおまえたちの目に怒り、唇には軽蔑の色の浮かぶのが見える。そうなのだ、これがいつでもパパラギのすることなのだ。たとえ百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとはしない。それどころか、その人がむしろを持っていない、と言って非難したり、むしろがないのを、持たない人のせいにしたりする。たとえ小屋の天井のいちばん高いところまで、あふれるほどの食物があり、彼とアイガ(家族)が一年食べても食べきれないほどでも、食べるに物なく飢えて青ざめた人を探しに行こうとはしない。しかもたくさんのパパラギが飢えて青ざめて、そこにいるのに。
しかし、パパラギにはわかっていない。神が私たちに、ヤシや、バナナや、おいしいタロ芋、森のすべての鳥、そして海のすべての魚を与えたもうたことが。そして私たちみんながそれを喜び、幸せにならねばならないことが。それは、決して私たちの中のわずかな人間だけを幸せにして、他の人びとを貧しさに悩ませ、乏しさに苦しめるためのものではない。
神からたくさんの物をもらえば、兄弟しも分けてやらねばならない。そうでないと、物は手の中で腐ってしまう。なぜなら神のたくさんの手は、すべての人間に向かって伸びており、だれかひとりが他のものとは不釣り合いにたくさんの物を持つのは、決して神の心ではない。さらに、だれかひとりがこう言うのも神の心ではない。「おれは日なたにいる。おまえは日陰に行け」私たちみんなが、日なたに行くべきである。
神が正しいその手の中で、すべてのものを支えておられるかぎり、たたかいもなければ苦しみもない。狡猾なパパラギは、こう言って私たちまでだまそうとする。「神様のものなんて何もない。おまえが手でつかんだものは、おまえのものだ」 ・・・そのような愚かな言葉に耳を貸すまい。正しい知恵に耳かたむけよう。すべては神のものだ。
この記事を読んでどう思いますか。神様のものとは、何だと思いますか? (MN)