月曜日, 5月 20キリスト教・例話集・週報アイデア集
Shadow

何を所有すべきか?(自分はどうか考えてみて下さい)

自分の財産、家庭、時間、能力、そして生命・・・ これを私たちはどのように意識しているでしょうか。「これは神さまからお預かりしているもの」と口では言いながら、自分の楽しみのために、それらをどれだけ多く使っていることでしょう。そして、神との交わりをする時間以上に、自分の所有物をふやすための努力を、いかに多くしていることでしょう。神御自身の御霊を私たちが所有していることが、いかにすばらしいものであるか、もう一度考えてみましょう。

パパラギ その3パパラギ  その3  (パパラギとは白人または文明人の意味)
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

パパラギは一種特別な、そして最高にこんがらがった考え方をする。彼はいつでも、どうしたらあるものが自分の役に立つか、そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。それもたいてい、ただひとりだけのためであり、みんなのためではない。このひとりというのは、自分自身のことである。

もし、ある男がこう言うとする。「おれの頭はおれのもので、おれ以外のだれのものでもない」それはそうなのだ。たしかにそのとおりだ。それについてだれも文句を言えるものはない。手の持ち主以上に、その手の権利を持っているものはない。ここまでならパパラギは正しいと思う。だがその先、パパラギはこうも言う。「このヤシはおれのものだ」なぜかというと、ヤシがそのパパラギの小屋の前に生えているから。まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように。ヤシは、決してだれのものでもない。

決してそうではない。ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持っておられる。どの木も、どの花も、どの草も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。

私たちにはその手を握って喜ぶことは許される。だがしかし、こう言ってはならない。「神の手はおれの手だ」しかしパパラギはそう言うのだ。たいていのものは、恥ずかしげもなく神のものを盗んでいる。ほかにすることを知らないのだ。何か悪いことをしているのだという気は、ほとんどまったくないようだ。みんながそうしているし、まったく気にはしていないし、だれも恥ずかしいとは思わないからである。父親からたくさんの「おれのもの」をもらって生れてくる人も多い。・・・

とにかく、神さまはもうほとんど何も持っていない。人間がみんな盗んでしまって、おれのものとおまえのものてに分けてしまった。みんなのものと定めて造りたもうた太陽を、神はもう、みんなに平等に分けることができない。みんながみんな、ひとよりたくさんの太陽を要求するからである。大きくてきれいな日当たりに、ほんの少しの人が日なたぼっこをしているかと思うと、うたさんの人が日陰で哀れな日射しをあびている。

神さまはもはや、その大いなる住処の最高のアリイ・シリ(支配者)ではなくなり、もはや本当の喜びを失ってしまわれた。パパラギはこう言うことによって、神を否定する。「みんな、おれのものだ」けれどもパパラギは、いろいろなことをいっぱい考えているにもかかわらず、遥かなことについては何も考えない。それどころか、自分のしていることを、りっぱで正しいと言い切る。だがそれは、神の前ではりっぱでもなく、正しくもない。

この記事を読んでどう思いますか。私たちは与えられているものに感謝して生活して
いるでしょうか? (MN)

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