月曜日, 5月 20キリスト教・例話集・週報アイデア集
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物質主義とは幸せなのか?(自分はどうか考えてみて下さい)

物・物・物 ・・・私たちは物に囲まれて生活しています。そうすると、自分の所有する『物』が無いと、自分は不幸だと思います。この考えを、キリスト者は軽視するわけにはいきません。なぜなら、キリスト者であっても、物が無いのは不幸だと思う考えが心の片隅にあり、そのために不安になったり、主に求めて祈ったりするからです。勿論、私たちが生活をするためには、『物』は必要ですが、私たちはこの地上では旅人であり寄留者であることを覚えましょう。そして、父である神御自身が、神の子である私たちに必要な『物』を最もよく知っておられることを覚え、主にゆだねましょう。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。                        聖書・マタイの福音書6章33節

パパラギパパラギ  その2 (パパラギとは白人または文明人の意味)
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

それからパパラギは、私たちのことについてこうも言っている。
「きみたちは貧しく不幸せだ。きみたちには、多くの援助と同情が必要だ。きみたちは何も持っていないではないか」
たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か、おまえたちに告げよう。・・・
たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも、腕輪も、食事の皿も、髪飾りも、すべてこれらは物である。
しかし、物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や、貝や、バナナのように、私たち人間が何の苦労も労働もせず、あの大いなる心(神)が造り出す物である。いまひとつは、指輪や、食事の皿や、ハエたたきのように、たくさんの人間が苦労し、労働をして作り出すものである。アリイ(紳士)が言う物とは、彼が自分の手で作った、人間が作った物のことであり、私たちが何も持っていないと言われるのは、こうした物のことである。しかし大いなる心が造り出す物について、アリイはひとことも言えるはずはない。そう、いったいだれが私たちより豊かであり、だれが大いなる心の造り出した物を、私たちよりたくさん持っているだろう。

見回してみなさい、遠く、空と海とがひとつになる所まで。すべては大いなる物に満ちあふれているではないか。野鳩や、はち鳥や、おうむたちの住む原生林。ナマコや、貝やエビ、その他の海の動物の住む入江。明るい顔と柔らかな砂の皮膚を持つ海岸。ときには戦士のように怒り、ときにはタオボウ(村の女神・娘たちの女王)のように微笑む海。金、銀の光りを放つ大輪の花をもたらし、刻々に色移らせる青い大空。・・・

どうしてこれらの物のうえに、愚かにも、なおそれ以上の物を作らねばならぬのか。これら、大いなる心が造った、気高いたくさんのや、上に。私たちはとうてい、大いなる心のなす業をまねることはできない。なぜなら、大いなる心の持つ力に比べ、私たちの心はあまりに小さく、あまりに弱い。さらになお、私たちの手は、力強い大いなる手に比べてあまりにも弱すぎる。私たちにできることは貧しく、語るに足りない。

いうまでもなくパパラギは、そういうものが作れると信じている。大いなる心と同じように強いと思っている。だから、無数の手が、日の出から日の入りまで、物ばかり作っている。人間が作る物、私たちにはそれが何のために使われるのか見当もつかず、美しいとはとうてい思えない。
そしてパパラギは、いつでもいっそう多くの物を、新しい物を作ろうとしている。その手は熱に浮かされ、顔は灰色になり、背は曲がってしまった。けれども、新しい物を作るのに成功したときには、顔は幸せに輝く。そしてみんなが、その新しい物をほしがり、崇め、自分の前に置いて、そのために歌を捧げる。

この記事を読んでどう思いますか。本当の礼拝するべき対象は物にあるのでしょうか?(MN)

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