金曜日, 5月 10キリスト教・例話集・週報アイデア集
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投稿者: Admin

物質主義とは幸せなのか?(自分はどうか考えてみて下さい)

物質主義とは幸せなのか?(自分はどうか考えてみて下さい)

歴史
物・物・物 ・・・私たちは物に囲まれて生活しています。そうすると、自分の所有する『物』が無いと、自分は不幸だと思います。この考えを、キリスト者は軽視するわけにはいきません。なぜなら、キリスト者であっても、物が無いのは不幸だと思う考えが心の片隅にあり、そのために不安になったり、主に求めて祈ったりするからです。勿論、私たちが生活をするためには、『物』は必要ですが、私たちはこの地上では旅人であり寄留者であることを覚えましょう。そして、父である神御自身が、神の子である私たちに必要な『物』を最もよく知っておられることを覚え、主にゆだねましょう。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。                        聖書・マタイの福音書6章33節 パパラギ  その2 (パパラギとは白人または文明人の意味) はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 それからパパラギは、私たちのことについてこうも言っている。 「きみたちは貧しく不幸せだ。きみたちには、多くの援助と同情が必要だ。きみたちは何も持っていないではないか」 たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か、おまえたちに告げよう。・・・ たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも、腕輪も、食事の皿も、髪飾りも、すべてこれらは物である。 しかし、物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や、貝や、バナナのように、私たち人間が何の苦労も労働もせず、あの大いなる心(神)が造り出す物である。いまひとつは、指輪や、食事の皿や、ハエたたきのように、たくさんの人間が苦労し、労働をして作り出すものである。アリイ(紳士)が言う物とは、彼が自分の手で作った、人間が作った物のことであり、私たちが何も持っていないと言われるのは、こうした物のことである...
本当の幸せとは?(自分の生活はどうか考えてみてください)

本当の幸せとは?(自分の生活はどうか考えてみてください)

歴史
ウポル島(西サモア)に住む酋長ツイアビが、20世紀のはじめにヨーロッパに行き、機械文明というものを初めて見た時の印象を彼独自の表現の仕方であらわした本があります。それが『パパラギ』です。パパラギとは白人を意味するそうですが、文明人という意味もあり、文明社会といわれるものに、やや批判的に用いられているのかもしれません。酋長はじめこの島の人々は、キリスト教を信じています。信仰の純粋さのゆえに、今の私たちがドキリとさせられるような文が載っています。原題の『パパラギ』(独:Der Papalagi)は、1920年にドイツで画家で作家のエーリッヒ・ショイルマンによって出版された書籍で、サモアの酋長ツイアビが訪問したヨーロッパについて話した演説をまとめたものとしているが、実際はショイルマンの手になるフィクションと言われています。それを今回から5回のシリーズで連載いたします。 パパラギ  その1 はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 かしこい兄弟たちよ、信仰の心をもって耳傾け、おまえたちが白人の持つような悪意を持たず、文明人が怖れることを怖れずにいるのはしあわせだと思わねばならない。… おまえたちも、あの宣教師の言葉をはっきりと覚えているだろう。「神は愛である。ひとりの真の救世主が常に愛そのものであるという善をなしたもうた。だからこそ白人の崇拝は、大いなる神にのみ向けられる」と。 宣教師は私たちに嘘をつき、私たちをあざむいた。パパラギが宣教師を買収し、大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。丸い金属と重たい紙、彼らがお金と呼んでいる、これが文明人たちの本当の神さまだ。 愛の神について、ヨーロッパ人に話してみるがよい ー  顔をしかめて苦笑いするだけだ。考え方が子どもじみていると言って笑うのだ。ところが、ぴかぴか光る丸い形の金属か大きい重たい紙を渡してみるがよ...
日航機墜落事故から

日航機墜落事故から

歴史
1985年 8月12日に発生した日本航空123便の墜落事故では搭乗員524名中520名が死亡した。その墜落する飛行機の中で遺書を残した河口さん。その長女真理子さんは、「あれほど冷静な父が、遺書の中で『どうか神様たすけて下さい』と書き残したのをみると、本当に怖かったのだと思います。」と語りました。「どうか神様たすけてください」このことばには、人としての真実の叫びがあります。そして人は神を求めるものであることも教えています。   日頃、神を知らない人は、神を知らないゆえに、神を求めません。しかし、神を知った人は、1度知ったことがあるというそれだけで、神を軽んじてしまうことがないでしょうか。「どうか神様たすけてください」これほどの真実の心をもって、神を呼び求めているでしょうか。義務的な心からではなく、日常の惰性的な気持からではなく、真実の心の叫びをもって神を求めていくべきです。   また奇跡的に助かった日航のアシスタントパーサー落合さんの証言で、パニック状態の中でも人々の助け合いが見られたなど、この墜落事故から、人間とは、生きるということについてなど、多くの人々に考えさせる機会となりました。  私たちは、今一度日々を大切に生きることを考えてみましょう。   「主を呼び求める者はすべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられる。」(詩篇145:18)...
一枚の絵

一枚の絵

知識
  右の絵を見てください。アメリカの画家ホーマーの描いた『メキシコ湾流』という絵です。1人の黒人の青年が、マストの倒れてしまった船で広い海を漂っています。船の周囲には、サメの群れ、遠くから竜巻が迫っています。帆船が遠くに見えますが、青年には全く気付かないようです。   この絵を見てある婦人は抗議をしました。「黒人の青年があまりにもかわいそうです。」しかしホーマーは次のように言いました。「彼は救われるのです。ご心配なく。」   私たちは自分の人生に起こってくるいろいろな出来事を見て、神を信じているのに、なぜこのようなことが次々起こるのかと暗い気持になることがあります。自分の計画というマストが折れ、今にもとびかかって自分を食いつくそうとするサメ、しかも竜巻まで自分の方に向かってこようとしている、・・・ 考えただけでも自分の人生はこれで終わりだと思います。しかし、私たちの人生を描いたのは偉大な力ある神なのです。その神が「あなたは救われるのです。ご心配なく。」と語っています。私たちはとびかかってもこないサメにおびえたり、来ないかもしれない竜巻に心配することはやめましょう。私たちの信じているのは、宇宙の万物を造り、それを支配している神なのです。...
神を信じる人のことば 7 – 遠山慶子 (1934-03-25-)

神を信じる人のことば 7 – 遠山慶子 (1934-03-25-)

人物
遠山慶子 (とおやま けいこ、1934-03-25-) ピアニスト 主にモーツァルトやフランス近代音楽の演奏で知られる。日本ショパン協会賞受賞 ♪「神さまに迎えていただいたとたんに、ものすごく自由になる。神さまが『ついてきなさい』って言った時に、『いやいや、わたしはついていきません』っていったらむりには連れていか祈いわよ。神さまは待っててくださるから。『ハハァーン、あの人まだもがいている』なんていう感じで見ているわけね。だけどある日、放漫な気持をすてて、神さまがサッと入っていらして『はい!』って言った時に、突然に楽になちゃうということがあると思うの。その時、ほんとうに自分が幸せになるんだけど。」...
神を信じる人のことば 8 – 井上洋治(1927年3月28日~2014年3月8日)

神を信じる人のことば 8 – 井上洋治(1927年3月28日~2014年3月8日)

人物
井上洋治(いのうえ ようじ 1927年3月28日~2014年3月8日) 神父 「日本とイエスの顔」「愛をみつける」「新約聖書のイエス像」の著者 ◆「ぼくは、それ(苦しい時の神頼み)は祈りのいちばん大切な部分じゃないと思うんだ。お願いごとというのは、どうしても弱い人間だから、せざるをえない時があると思うけど、本来の祈りというのは、わたしたちを生かしている、もっとも大きなものの前に、たたずむことだと思うんですけどね。」 ◆「(不純な動機で洗礼を受けることもある。)戦争直後、焼き芋をたくさんくれたから洗礼を受けたとか。神さまがつかまえられるやり方はいろいろありますよ。自分が幸せになるためって言ったって、だいたいエゴイズムだものね。ここで受ければ、幸せになるか、うまくいくだろうとか、金がもうかるとか、天国に行けるとか、いろいろあるだろう。神さまとおつきあいしているうちに、変えられていくものだと思うね。」...
『本』という名の本

『本』という名の本

キリスト教, 人物, 知識
Sir Walter Scott, 1771年8月15日 - 1832年9月21日)スコットランドの詩人、作家。エディンバラ大学で法学を学び、父の跡を継いで弁護士となる。25歳より文筆活動を始め、当初は詩人として、後に歴史小説作家として名声を博す。イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた、初めての人気作家といえる。代表作として『ロブ・ロイ』、『アイヴァンホー』、『湖上の美人』、『ランメルモールのルチア』の原作となった小説『ラマムアの花嫁』など。ウォルター・スコットの肖像はスコットランド銀行発行のすべての紙幣に使用されている。 ● 8月15日はイギリスの詩人であり作家のウォルター・スコットが生れた日です。彼が瀕死の病床にある時、婿に本を持ってくるようにたのみました。婿が「何の本でしょうか。」とたずねると、「本といったら聖書にきまっている。」と言い、聖書を読んでもらい、心に大いなる安らぎを得ました。 ● このように、聖書は最初から「聖書」だったのではありません。「聖」という字は後世に追加されたのであり、もともとは「書」と呼ばれていました。英語の「バイブル」、この語の由来をたずねると、ギリシャ語の「ビブロス」で、「本」という意味です。つまり、聖書という本は最初「本」(the Book)と呼ばれていたのです。日本語でいえば、「本の中の本」という意味です。 ● 「お花見」といえば、バラやチューリップを見るのではなく、桜のこと。それほど日本人にとって桜は「花の中の花」なのです。)じように「本の中の本」「本という名の本」、それがバイブル、聖書なのです。キリスト教以外でも「○○教会」と用いられる昨今、「育児のバイブル」「料理のバイブル」などと使われると、「本の中の本」という意味が次第になくなっていくような気がするのは、淋しいかぎりです。 ● 「あなたは本を読んでいますか...
8月7日

8月7日

8月 (葉月), 知識, 祝日・記念日
◆ 8がつ7にちは「ハナ(はな)で、「鼻の日です」鼻の働きは、ずり落ちる眼鏡を留めておくだけのものではありません。これを機会に、あなたの鼻の働きを理解しましょう。 ◆ 1分間に約16~18回、生きている限り、呼吸を忘れるわけにはいきません。肺や気管に適当な温度と湿気のある空気を送り込むのが鼻の役目です。祈りは呼吸といわれますが、バッカス博士は、あと30分もすれば息をひきとるということを医師から聞きました。すると「それではその30分間世界が1日も早く救われるために祈りましょう。」と、ベットからおり、そこにひざまずいて、祈りながら死んでいったといいます。あなたは祈りの呼吸をしていますか。 ◆ 平常の1回の呼吸量は0.5リットル。1分間に16回呼吸するとして、1日に吸う空気は聖書リットル。つまり、4畳半の部屋と同じくらいの体積の空気を呼吸しています。どんなに頭の良い人でも、力の強い人でも、呼吸が止まればそれで終わり。聖書のことば。「鼻で息をする人間に頼ることをやめよ。そんな者に何の値打ちがあろうか。」(イザヤ 2:22) ◆ 鼻のもう1つの仕事は、においを嗅ぐことです。においには約40万種類があり、そのうち人間は10万種嗅ぎ分けられるといいます。しかし、カビ止め、防腐剤として用いられているプロピオ酸の入っている食パンを人間はおいしいそうに食べますが、ブタは食べません。その有毒性を嗅ぎ分けるからです。安もののカマボコも有毒添加物が入っており、ネコは嗅ぎ分けて食べません。人間のように、においを嗅ぎ分けられないものは、幸いでしょうか、不幸でしょうか。...
神を信じる人のことば 5 – 今道友信 (1922-11-19~2012-10-13 )

神を信じる人のことば 5 – 今道友信 (1922-11-19~2012-10-13 )

人物
今道友信 (いまみち とものぶ、1922-11-19~2012-10-13 )  日本の美学者・中世哲学研究者である。国際形而上学会会長、国際美学会終身委員兼名誉会長、国際エコエティカ学会会長。哲学美学比較研究国際センター所長。東京大学名誉教授。「愛について」「東西の哲学」などの著者 「ぼくは最初『信仰』の『仰』を除い『信』だけで考えていました。「信ずる」ということは、わたしはまかせることだと思うんです。相手から何かを期待するというよりは、自分の力で、どうにもならないことを思う悩んでもしょうがないから、生死をまかせる相手がいるなら、それにこしたことはないというような心境がございましたですね。」 「信ずるということは、だれでもしているわけで、信じる相手が目に見えない神になるのか、それとも自分になるのか、新聞や雑誌になるのか、その違いのような気がするんです。そして『仰ぐ』というと大げさになりますけど、尊敬して信ずるということも、まれにありますでしょう。人間、人事を尽くしたあと、過去や未来の運命のようなものについてはまかせる相手がいたほうが安心ですね。」 ...
神を信じる人のことば 6 – 松井千恵    (1926~ )

神を信じる人のことば 6 – 松井千恵 (1926~ )

人物
松井千恵    (まつい ちえ、 1926~ ) 1949年、慶應義塾大学卒業。1956年、上智大学大学院修士課程終了。白百合女子大学教授(児童文化学科)を経て、仙台白百合短期大学学長。歴史学・児童文学専攻。「ひよこのあゆみ」などの著書 「『念祷』とは、黙祷というのとも違います。念は今と心と書くでしょう。今に心をおいておく、神の手の中に存在していることを感じることでしょうか。聖書のあることばを考えることもできますし、また『観想』といって、聖書のある場面を考えることもできます。結局わたしたちの生活というのは、キリストのあとについていく生活でしょう。ですからキリストの生活を想い、感じるわけです。そして意識の世界から神さまのほうへ、自己主張をやめ、自分から出て、神のまなざしに向かっていくことなんです。それは、語りかけというより、むしろ心の耳を傾けて、『聴く』ということです。聞こえてくるのではなく『感ずる』っていうのかしら。」  ...