日曜日, 4月 28キリスト教・例話集・週報アイデア集
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26人の殉教 (1/8)

26人の殉教 (1/8)

●   1597年2月5日、26名のキリシタンが十字架につけられました。日本最初の殉教者たちでした。

●   1587年、それまでキリシタンに好意を寄せていた豊臣秀吉は、突如として『伴天連追放令』を出しました。自らを太陽の申し子とする秀吉にとって、絶対神デウスを信じるキリスタンを受け入れることはできません。

●   秀吉は禁令を出しながらも、南蛮貿易の利益をも考えていましたから、当初は、それほど強いものではありませんでした。しかし、1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリーペ号を没収するという事件から、スペイン人宣教師は、日本を奪う手先と思うようになり、スペイン人宣教師と日本人の使用人を捕らえ処刑することになったのです。

●   彼らは京阪で捕らえられ、長崎に送られました。途中、自ら名乗り出した2人を加えて総勢26名、わずか12、3才の少年3名もまじっていました。長崎の町や海から見通しのきく丘で十字架につけられ、4000人をこす見物人たちの見る前で、殉教していきました。

●  「私が切に願います事は、太閤さまをはじめ、日本の皆の衆がキリシタおなりなさって、救いをお受けになることでございます。」これが十字架上から発せられたパウロ・三木(33才)の最後の言葉でした。

●   私たちは、キリストを信じていても、秀吉の頃のような迫害に会うことはないかもしれません。しかし、26人の殉教者たちに思いをはせて、キリストが語られた「あなたはわたしを愛しますか。(ヨハネ21:17)」という言葉を自分に問いかけてみましょう。

二十六聖人殉教図 1862年6月、教皇ビウス9世により荘厳な26殉教者列聖式典が挙げられた。これを機として多くの殉教記が諸国で出版され、日本再布教の熱意も燃え上がった。殉教図の多くは図案化されたりしているが、これは写実的に描かれている。 残念ながら作者は不明。                        (松崎実校注  鮮血遺書・所載)   二十六聖人 (http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/owari4.htm) 巡察師ヴァリニヤーノは京から九州に戻り、宣教師の思想統一や教会の組織改革に敏腕をふるった。その後、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の援助を得て、天正十年(1582)一月、四人の少年使節を伴い長崎を離れ、ローマに向け旅立った。  (注)少年使節については、第一集「淀川の水」11.キリシタンの里高槻、参照 

 

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